イエスのことを考えなさい

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今回は、「イエスのことを考えなさい。」(へブル3:1)からのメッセージです。私たちクリスチャンは、イエスを信じて清められた者であること、教会の一員とされていること、そして、日々互いに励まし合って生きる関係にあることを語って行きたいと願っています。それでは、へブル書3章を読んでいただきたい。
 
3章1節には、「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」と書かれています。この聖句から、まず、私たちクリスチャンは、天の召しにあずかっている聖なる兄弟姉妹たちであることに気づかされます。召されるということに関して、第一テモテ6:11、12節を参照してほしい。「しかし、神の人よ。あなたは、・・正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、・・」と書かれています。神が私たちを召してくださるのには、目的があることにお気づきになられたことと思います。正しさ、敬虔、愛、また柔和などの信仰者としての品性を求める生き方を、まず、信仰者が目指して生きることの大切さに気づかされます。神は、私たちを王とし、また祭司として召してくださり、キリストと共にすべての被造物を治める働きに招いてくださっておられるのですから、ある意味、当然なことです。加えて私たちは聖なる者とされていることを自覚して頂きたいと思います。イエスは大祭司としての働きを忠実になしてくださったことを先週学びましたが、イエスは、十字架を通して、ご自身を捧げ、その血を通して、永遠の贖いをなしてくださった方です。私たちはイエスの永遠の贖いの中に生かされているのです。イエスの贖いのゆえに、私たちは清められている。その教えをしっかりと握って行きたいと願っています。イエスこそ私たちの告白する信仰の使徒であること、そして、イエスこそ私たちの大祭司であることを覚えて、大祭司であるイエスの、それらの働きについて考えて行くようにと、チャレンジされています。
 
加えて、へブル書の作者は、モーセとイエスを比較することで、イエスがモーセより偉大であることを明らかにしています。その文脈の中で、モーセがイスラエルの民を導いたように、イエスは教会をおこし、教会を導いておられることを述べています。その箇所を見てみましょう。3節には、「イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。」と書かれています。モーセは、旧約聖書の中で最も偉大な指導者の一人です。5節には、「モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。」と書かれています。モーセは、神のみ旨の啓示の器であり、預言者、祭司としての働きをなした方です。民が罪を犯したときにモーセが神の御前にとりなす祭司としての姿が、出エジプト記32章に書かれています。興味ある方は読んでみてください。モーセの偉大さは、神ご自身によって確認されています。民数記12:7,8節を開いてください。「彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。・・彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。」と書かれています。それではイエスがモーセより偉大であるとは、どんな意味をもつのでしょうか。3節には、「家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、」と書かれています。ここで作者は、イエスこそ神の御子であり、この世界の創造者、相続者であり、ご自身の家(神のみくに)の建設者であり相続者であることを明らかにしようとしています。モーセの働きは、後にくる新約の時代をあかしするためのものであり、イエスの働きを指し示す働きを、忠実になしたにしか過ぎないことを明らかにしています。6節には、「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。」と書かれています。神の家とは、広くは神の御国を指し、この文脈では教会を指し示しています。私たちは、「確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」と続いています。私たち一人一人、どのような試練の中に置かれたとしても、確信と希望を終わりまでしっかりと持ち続けることが必要となってまいります。イエスこそ、神の御子である。私はイエスを信じる信仰によって救われている。イエスはもう一度戻ってきてくださり、私を天国に迎えてくださる。そのような確信と希望こそ、試練に打ち勝つことができる私たちの希望であると思っています。
 
さらに、13節には、「きょう。と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。」と書かれています。一人で信仰を守り通すことは簡単なことではありません。クリスチャンは互いに励まし合って行くことが大切です。エジプトの奴隷の状態から解放されたイスラエルの民と同様に、心をかたくなにする(8)、心が迷い(10)、そして、不信仰の心になって生ける神から離れることがおきてしまいます(12節)。神から離れないためにも、日々互いに励まし合うことが必要です。へブル書10:24、25節では、「互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、・・」と勧められています。きょう、たとえそれが試練の日であっても、または祝福の日であっても、いっしょに集まって励まし合って行くことを忘れてはいけないと勧められています。このコロナ禍の社会の中、一緒に集まる機会が難しくなってきました。しかし、それでも、手紙やメール、電話など、いろいろな方法で励まし合うことは可能です。大祭司であるイエスが私たちのために祈ってくださっていることを覚えて、私たちも祈りや励ましの言葉を互いに掛け合っていく者でありたいと願っています。今日のメッセージのテーマは、私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい、でありました。信仰を私たちの心に与えてくださったイエスは、私たちの大祭司であられます。イエスの姿に学び、希望のメッセージをもって、人を励まし、信仰に一緒に踏みとどまるように助けあっていきたいと願っています。14節には、「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」と書かれています。キリストにあずかる者とは、キリストと共に立つ者であり(1:9)、神の国を相続する者のことです(エペソ5:5)。私も皆さんと一緒に互いに励まし合い、御国を相続するものでありたいと願っています。