あなたがたで、あの人たちに何か食べ物を上げなさい。

 ↓メッセージが聞けます。

今回は、「あなたがたで、あの人たちに何か食べ物を上げなさい。」(マルコ6:37)からのメッセージです。

これは、イエスがなした5000人の給食の奇跡の物語の一節である。イエスは、多くの群衆をご覧になり、そして、彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深く憐れみ、いろいろと教えられたようである。弟子たちに、「あなたがたで、あの人たちに何か食べ物を上げなさい。」とチャレンジする。200デナリ、今のお金で約200万円、そんなお金もないし、そんな大量の食糧も用意できない、弟子たちの理性的な応答が書かれている。マルコ6:34-44を読んでいただきたい。
しかしながら、イエスの願いはお金ではなく、神への信仰であり、進んでささげる信仰者の捧げものを神は豊かに祝福して用いてくださることに気付いて欲しいとの思いであることに気づかされる。この中には、イエスの求めに従って、5つのパンと2匹の魚がまず提供され、イエスの手の中でパンと魚が裂かれ、弟子たちの手で人々に配られていった様子が書かれている。(41節)その結果、弟子たちは人々が食べて満腹する姿を目撃することとなる。それだけではなく余ったパン切を12のかごいっぱいに集める体験も共にする。驚くべき聖書の箇所である。

この出来事の前に、イエスは弟子たちを宣教のために、二人ずつ遣わす経験をさせている。イエスの宣教の中心は弟子を育て、宣教を弟子たちにゆだねることであった。6:7-13,30節を読んで欲しい。イエスの弟子訓練は一貫している。まず神の力をもって自分が手本を示すこと、次にイエス自分が弟子の協力を求めて神の働きをすること、3番目にイエスのサポートのもと弟子が中心になり、神の働きをすこと、そして、最後に弟子たちだけでミニストリーをできるようになること、もちろん聖霊の導きの中でなすことであるが。そのように考えると、5000人の給食も弟子たちの参加を求め、彼らの信仰を育て、必要に応じて答えてくださる神の業を体験させる弟子訓練の一部であるように思われる。

教会のミニストリーは、牧師だけでなすべき働きではない。牧師もキリストに習い、キリストを手本として神の働きに加わる者である。信徒一人一人の協力があって、教会のミニストリーや、宣教が可能となる。キリストを手本にして、キリストのしもべとして教会の業が拡大することを期待している。