三日の後に、人の子はよみがえる。

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 今回は、「三日の後に、人の子はよみがえる。」(マルコ9:31)からのメッセージです。
人間の常識では到底理解できないイエスの言葉をとりあげます。マルコ9章30-37節までを読んでいただきたい。人の子との表現をイエスは、メシアであるご自身を指示して何度も使っています。メシアであるイエスが、殺されて、三日の後によみがえられる。そのことを弟子たちに語るのは今回で二回目である。一回目はマルコ8章31節に、そして、三回目はマルコ10章33、34節に書かれています。そのたびごとに、弟子たちは戸惑い、そのみことばが理解できず、そのことをイエスに尋ねるのを恐れたようである。
私も弟子たちの気持ちがわかるような気がする。それは、私も聖書を読み始めた頃、イエスの十字架の上での愛、いくつかの奇跡や、その語られたみことばには感動を覚えたたが、どうしても、復活は理解できなかったからである。復活など起こりえない、そのようにわたしの頭は強く復活を受け入れることができなかったことを覚えている。

教会の迫害者から後にイエスの弟子となったパウロは、コリント人への手紙1章18節で、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」と書いている。十字架のことばとはイエスキリストの福音のことである。クリスチャンは、罪を背負って、十字架についてくださり、3日目によみがえったイエスを信じる者たちであるが、滅びに至る者には、そのメッセージは愚かに聞こえるものである。
さて私は、日本の教会で育てられ、アメリカに留学に導かれて、クリスチャンたちの信仰のすばらしさに気づかされることとなる。クリスチャンの大学で学び、進化論ではなく、神の創造を信じる多くの人たちがおられることに気づかされることとなる。彼らの信仰に励まされ、信仰を育てられ、もし神が願うなら私は神の働き人になりたいと思うようになる。これらの心の変化は、福音を受け入れた私の人生に起こった神の働き、神の力であると気づかされる。パウロは続けて語る。「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」(1:23,24)と。

イエスの復活のメッセージが理解できない弟子たち、彼らの関心はだれが一番偉いかとの話会いであったようである。イエスはそんな彼らに言われる。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」と。十字架上での犠牲を受け入れて、人類のために自分のいのちをさしだそうとするイエスと、弟子たちの自己中心性、なんという対比なのかと私は思う。しかし、復活のイエスにお会いし、聖霊を受けた弟子たちが変えられて、みなのしんがりとなり、みなに仕える者とさせられて行くことこそ、福音の持つ力であると私は思う。さて皆さんはどうであろうか?イエスの十字架と復活を信じるあなたにも、イエスは仕える喜びも体験してほしいと、同じチャレンジを与えているのではと私は信じている。