目をさましていなさい。

 ↓メッセージが聞けます

今回は、「目をさましていなさい。」(マルコ13:37)からのメッセージです。終末について語られるイエスが、弟子たちに向かって、話の最後に語りかけることばである。恐れや、心配の中にもう生きる必要はない。イエスが語られる言葉を整理して、終末にどんなことが起こっても、イエスをしっかりと見上げながら、希望をもって生きて行こうではないか。そのような思いを今日皆さんに分かち合いたいと願っています。少し長い箇所ですが、マルコ13章を読んでいただきたい。まず、13章全体の内容を簡単に皆さんに分かち合って行きたいと思う。
 
当時の宮の美しさ、建物のすばらしさに弟子たちは声を上げる。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」と。するとイエスは彼らに言われる。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」(1,2節)。神殿の崩壊の預言に驚いた弟子たちの何人かが、後になってイエスに尋ねます。「お話ください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」(4節)と。ここには、2つの問いがある。いつそれがおこるのかと、それが実現する時、終わりの時には、どんな前兆が起こるかである。イエスは彼らの質問に、エルサレムの崩壊と終末の出来事を重ねて語りだす。ちょうどかすみのかかった遠くの山々を見るように、終末の出来事が重なって説明されていく。イエスの終末の出来事に関する答えを整理してみる。第一に、「わたしこそそれだ」と名乗りでる者、つまり、自分こそメシヤだと自称する者がおおぜい現れ、多くの人を惑わすこと(6節)。第二に、戦争のことや戦争のうわさを聞くこと(7)。第三に、方々に地震やききんが起こること(8)。第四に、弟子たちに対する迫害が起こること(9)。第五に、それらの迫害を通して、弟子たちはあかしをする者に変えられ、その結果、イエスの福音があらゆる民族に宣べ伝えられて行くこと(10)。それも自分の力ではなく、聖霊の助けを受けて伝道が進んで行くことが約束されている。
 
続いて、第六に、エルサレムの滅亡の預言が14節から、語られて行く。この預言は、文字通り、紀元70年にローマの侵略を受けて神殿が破壊されたことを指し示すが、同時に終末的前兆の一つとも考えられる箇所である。「『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たなら、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。」荒らす憎むべきものとは、ダニエル書12章11節からの引用であるが、神殿の祭壇が破壊され、その代わりに異教徒の祭壇が据えられことに対して、この表現が用いられている。偶像と理解することも、反キリストと理解することもできる。将来、終末を考える際には、エルサレムでこれから何が起きるのかを注意して見ていく必要があると、私は信じている。エルサレムのクリスチャンの多くは、イエスの語られたように、このエルサレム崩壊の時に早くから脱出して難を逃れたようである。しかしながら、多くのユダヤ人たちは、エルサレムに対する信仰を捨てられずに、大きな被害を受けたようである。改めて、キリストの言葉に聞き従うことの大切さを教えられる。さて、イエスは、最初に宮きよめをしたときに、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」と語ったことを覚えておられるだろうか。ヨハネ2:19-22節を読んで見ていただきたい。その時、「イエスはご自身のからだの神殿のことを言われたのである。」とある。クリスチャンは、エルサレムの神殿にもう縛られていない。礼拝はどこででもできる。イエスが十字架につき、3日目によみがえったことで、イエスを信じる礼拝者の群れが世界中に広がることになる。新約の時代が始まったのである。
 
終わりの時の前兆の第七の特徴は、にせ預言者とにせキリストの出現である。彼らは、選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます(21-23)。と書かれている。だから、気をつけていなさいとある。終末に生きる私たちは気をつけて、よく観察する必要がある。続いて、24節からは、人の子の来臨の約束が書かれている。人の子とは、もちろんイエス・キリストのことである。彼は、定められた時に、宇宙的な変動を伴って再臨される。24-27節を読んでみてほしい。その苦難に続いて、太陽は暗くなり、・・天の万象は揺れ動かされますとある。その苦難とは、いままで述べてきた患難全体を示す。これらの患難につづいて、宇宙的な変動があり、キリストが戻ってこられる。キリストは、偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って戻って来られる。雲に乗ってとの表現は、雲が神の栄光に満ちた臨在の象徴であるからである。そして、キリストは、み使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます、と書かれている。四方からとは全世界からで、私たちキリスト者は、選びの民なのある。神の民とされた選びの民、それは私たち一人一人のことである。私はそのことを信じて感謝に満たされる。
 
31、32節には、「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天のみ使いたちも子を知りません。ただ、父だけが知っておられます。」とある。父なる神だけがその時を知っている。私たちができることは、気をつけて、目をさまし、注意していることである。33節から37節には、目をさましていなさいと3度も語られている。「目をさましている。」それが今日のテーマであるが、キリストが与えてくださる約束を信じて、目をさました信仰者として、しっかりとこの世での働きを全うして行こうではないか。終末は恐れの時だけではない。神の選民に対する、困難からの解放の約束の時である。目をさまして、この世の状況を良く見極めて、キリストの再臨を待ち望んでいこうではないか。