この方は、まことに神の子であった。

↓メッセージが聞けます。

今回は、「この方は、まことに神の子であった。」(マルコ15:39)からのメッセージです。これは、イエスの十字架を初めから終わりまで目撃したローマの軍人、百人隊長の言葉です。この隊長は、ローマから派遣された総督ピラトに仕え、このピラトがどんな人間であったかも良く理解していたと思われます。日和見(ひよりみ)主義という言葉があるが、この総督ピラトは実にそのような性質を持つ者であったようです。ピラトは紀元26年~36年まで、その職にとどまり、度重なる失政で職を追われることとなります。マルコ15章1-15節にはピラトのもとでのイエスの裁判の様子が記録されている。特に14,15節には、自分はイエスが正しい人であることを分かっているのに、群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放して、イエスを十字架に付けることを命じることとなる。日和見主義とは、形勢により、有利な方につこうとする生き方であるが、このピラトはそのような総督であったようである。本来なら、この総督は、ユダヤの大祭司の任命権を持つ者であり、かつ住民の裁判権も有していて、大祭司の間違いを正すことができたはずであるのに、実に残念である。

それでは、イエスが十字架に着けられて行く様子を見てみましょう。24節には、「それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえでイエスの着物を分けた。」とある。囚人の着物をもらうのは、死刑執行人の役得であったようで、詩篇22篇18節の預言が成就されることになる。イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王。」と書いてあった。と26節にある。イエスは、反ローマ的政治犯として処刑されることとなる。二人の強盗と共に、その間に、イエスは十字架に着けられ、多くの人々からののしりを受けることとなる。その様子がマルコ15章22-32節に描かれている。加えて、ルカ23章34節には、イエスの十字架での最初の祈りが記録されている。その箇所を開いてぜひご自分で読んでいただきたい。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と記録されている。この力強い、愛に満ちたイエスの祈りをこの百人隊長は聞くこととなる。続いて、十字架にかけられた犯罪人の言葉をルカは記録している。ルカ23章39-45節を読んでいただきたい。十字架にかけられていた犯罪人の一人のイエスに対する悪口に対して、もう一人のほうが、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」このようなパラダイスを約束する感動的な言葉をこの百人隊長は聞くことになる。人類の罪を背負い、十字架の上で苦しまれるイエスとともに、愛にあふれるイエスの言葉がこの百人隊長のこころに残って行ったのではと、私は思う。ところで、パラダイスとは、神の住まいである天を指してもちいれられる言葉である。

次に、ヨハネ19章26、27節を開けてほしい。イエスは十字架の上で、新しい交わりを造りだしておられる。ご自身の母と愛する弟子を見たイエスが語られる。自分の母に、「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われ、それからその弟子に、「そこに、あなたの母がいます。」と言われる。そして、その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。と書かれている。信仰者として、イエスを愛するが故になすことのできる決断を、自分の母と弟子との間に起こすことを成し遂げられている。

マルコ15章33-38節には、12時になったとき、全地が暗くなって、午後3時まで続いたとあり、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれたとある。暗闇に襲われ、イエスと父なる神の断絶の恐怖が全地をおおうことになる。人類の罪を背負うイエスの上に注がれる神の裁きの恐怖が全地をおおうことになる。それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。(37)と書かれている。38節には、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。とある。この幕は、聖所と至聖所を仕切る幕のことであり、至聖所は神の臨在があふれるところである。この至聖所には、大祭司が年に一度だけしか入ることが許されなかった。神殿の幕が避けた出来事は、キリストの十字架での贖いにより、イエスを信じる者が神の臨在の前に出ることが許さるようになることを意味している。へブル10:19節には、「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。」とある。ルカは、23:44-47節で、太陽は光を失っていた。・・・イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。とある。この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。そうルカはマルコと同じ箇所を記録している。

十字架に着かれ、罪の贖いをされるイエス、また、私たちのために祈られるイエス、和解の働きをされるイエスの姿を今日は見てみました。そして、百人隊長の信仰告白「この方は、まことに神の子であった。」との言葉を今日のメッセージのテーマといたしました。あなたは、どのような信仰告白を、十字架を目撃してなすのでしょうか。「ほんとうに、この人は正しい方であった。」「この方は、まことに神の子であった。」との信仰告白を共になす者として、キリストに感謝する者でありたいと願っています。