信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。2

 ↓メッセージが聞けます。(ZOOM礼拝録音)

 今回は、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(へブル12:2)からの2回目のメッセージです。イエスこそ信仰の創始者であり、完成者です。イエスは、信仰の完成者となるために、十字架での苦しみを味わいました。その苦しみは、はずかしめを伴うものであり、4節にあるように、罪と戦って、血を流すまで抵抗した神の業でもあります。私たちのために苦しみを味わられたイエスに目を注いで歩んで行きたいと願っています。きょうは、苦しみや試練に焦点を当てて、神が苦しみを私たちに人生に起こることを許される意味を考えて行きたいと思います。それでは、へブル12章1-13節を読んでみてください。

1節の後半には、「わたしたちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」とチャレンジしています。競争をする時は、その為に身を整えなければなりません。優先順位を考えて、身を整える。それから競争の場に立つわけです。試練や困難に直面した時も同じことが言えると思います。3節には、「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れはててしまわないためです。」と書かれています。まず、私たちが試練に会う時には、イエスの苦しみを覚えることが大切です。私は、あなたを罪から自由にするために十字架で苦しんだよと、愛をもって語りかけるイエスを見上げたいと思います。試練や苦しみに直面している方々、聖書のこの約束を覚えてまいりましょう。第一コリント10章13節には、「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」とあります。神は試練とともに、脱出の道を備えてくだる方です。

へブル12章5節からは、キリスト者が訓練を受ける理由について述べています。第一に、父なる神と子であるキリスト者との間に、真の愛の関係があることを示すものです。(いのちのことば社、チェーン式引照参照)6節には、「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」とあります。この箇所は、箴言3章11、12節からの引用です。箴言3章は本当に素晴らしい箇所です。「わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。」との言葉から始まるこの箴言は、恵みとまことをまとい、主に信頼する生き方を教えています。ぜひ読んでみてください。箴言3章12節には、「父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。」とあります。父と子に真の愛の関係があるからこそ、キリスト者は父なる神からの訓練や試練を受けるのです。

第二に、神への服従を学ばすために、私たちクリスチャンは訓練や試練を受けます(9節)。服従との言葉は、時に強すぎる言葉で、不快感を呼び起こします。しかしながら、私たち人間は被造物であり、創造主である神を信頼し、その方に従って生きるとの視点に立てば理解が変わってきます。アガペーの愛で愛してくださる神様がおられるのです。あの放蕩息子を受け入れた父なる神様がおられるのです。試練とともに、脱出の道も備えてくださいますと約束された父なる神様がおられるのです。様々な困難に直面する時、自分が握っていたハンドルを神にゆだねて、神の導きに従う勇気を持とうではありませんか。

第三に、キリスト者が訓練を受ける理由は、神の聖さにあずからせるためのものです。へブル12章10節の後半には、「霊の父は、私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」と書かれています。神の聖さにあずかる。これは、信仰者が目指して生きる大切な生き方でもあります。聖さの理解には、神の視点と人間の視点があります。神の視点は、第一コリント6章11節に書かれています。「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」と書かれています。以前どのような生き方をしてきたとしても、今は神の恵みによって、イエスを信じる私たちを神は、聖なる者、義なる者として見ておられるのです。同時に、私たちはこの地上で生きている間は完成には至っていません。聖さを意識し、神の助けを求めて、聖化の人生を始めるのです。神は時に試練を通して聖さにあずからせようとされるのです。14節には、「すべての人との平和を追い求め、また、きよめられることを追い求めなさい。」と書かれています。すべての人との平和を追い求めには努力が必要です。人を赦すことの困難さを私たちは時に覚えます。赦しの困難さを自覚する、同時に神の赦しの大きさを覚える。神の助けを受けて、聖化の人生を信仰者は歩み始めるのです。

第四に、キリスト者の生活に、平安な義の実を結ばせるために、神は私たちの人生に懲らしめや訓練を許されます(11節)。ここでの義とは、神と私たちの正しい関係を表します。平安、神との正しい関係、そのような実を実らせるために、神は試練や困難を私たちの人生に許されるのです。例え今は試練や困難な出来事で苦しんでいたとしても、後になると、平安な義の実を結ぶ時が来るのです。クリスチャンの成長、このことに神は関心を持たれています。義の実を結ぶ、そのような生き方を目指して行きたいと思います。
12節では、「ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。」とチャレンジしています。弱った手、衰えたひざ、そう感じたときでも、信仰をもってしっかりと立とうではありませんか。神の愛の中に私たちは生きているのです。神は私たちを子としてあつかっておられるのです。神への従順を学び、聖化の人生を生きることが私たちの人生の目的なのです。そして、平安な義の実を結ぶ人生があることを信じて歩んでいこうではありませんか。