大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。_北澤牧師

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ヨハネ6章1節~14節
並行記事 マタイ14:13-21 マルコ6:30-44 ルカ9:10-17

①今から約2000年前、キリスト教会が成立していったのですが・・。
その歴史を少しでも学んでゆきますと、様々な厳しい困難があったことが分かります。

・特に、初代教会からの約300年間、教会への迫害は実に激しいものであったようです。ウクライナの方々と同じような日々に置かれていたと言っていいと思います。

・では、そういう厳しい困難の中におかれていたキリスト者たちが、心の底から励まされ、勇気づけられていったことは何だったのか、といいますと・・それはやはり、聖書に記されている御言葉であったようです。

・きょうの聖書箇所、5千人の給食の記事は・・その中でも、初代教会のキリスト者たち・・迫害時代のキリスト者たちが特に愛した聖書個所であったようです・・。

・きょう、私たちは、この五千人の給食の記事が、なぜ、困難の中にある人たちに大きな力を与えてきたのか・・その理由は何だったのか・・ご一緒に考えながら・・、私たち自身も、また、この記事から、神様からの大きな励ましをいただいてゆきたい、そう思うのです。

②では早速、きょうの聖書箇所を見てまいりましょう・・。 

・この五千人の給食と言われる出来事は、4つの福音書全部に書きしるされています。このことからも、初代教会時代、この出来事を記した箇所が、如何に愛されていたのか、うかがい知ることができます。

・ところで・・この出来事を記した4つの福音書の記事の中で、私は、このヨハネの福音書が一番好きです。  その理由は・・この時、一人の少年がもっていた、パンと魚について、ヨハネの福音書はとても興味深い事を伝えているからです。 

・そのことは、さておきまして・・先ずは、この出来事がどういう出来事であったのか、簡単に振り返ってみたいと思います。

・今、全部の福音書を、いちいち開きながら説明をしておりますと、時間がたなくなりますので・・今、私は、全部の福音書が語っていますことを、含めながら、この出来事がどういう出来事であったのか・・簡単にお話してみたいと思います。

○ある日の午後、主イエスは、弟子たちと共に、船に乗って、ガリラヤ湖の北にある小さな町ベツサイダというところに向かってゆきます。

・人々の喧騒(けんそう)から離れ、祈りの時をもつためではなかったか・・と、思いますが・・・
 しかし、群衆は、このことをひそかに知りまして・・その群衆は、湖に沿って歩いて、主イエス一行が向かった、ベツサイダという所に先回りして・・そこで主イエス一行を待っていたのでした。

・ところが、主イエスは、そんな時にもいやな顔一つせず。いや、それどころか・・ルカの福音書によれば、「イエスは喜んで彼らを迎え」とありますように、・・この後、主イエスは、そこにいた群衆に喜んで、神の国の宣教と癒しの御業をなされるのでした。

・そうこうしているうちに、あたりは暗くなってまいりました。
 弟子たちは焦っていました。・・「こんな大勢の群衆が、こんな辺鄙なところに集まってしまっている。しかも、暗くなってきた・・」

・そこで、弟子たちは、主イエスに進言します。「ここはさびしいところですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして、村に行ってめいめいで食べ物を買うようにさせてください。」

・すると、それを聞いた主イエスは、意外な返事をなさるのでした。「村に行く必要はありません。私が彼らを食べさせます。」そう言ったのではありませんでした。主イエスは、こうおっしゃったのでした。
「あなたがたで、あの人たちに、何か、食べるものをあげなさい。」

・さあ困りました。 弟子たちは、慌ててこう言い返します。
 「ここには、5つのパンと、二匹の魚しかありません。私たちが村に行って、みんなの分を買ってくるとでもおっしゃるのですか」

・しかし、主イエスは、そのパンと小さな魚を、「これだけでは何の役にも立ちません!」とはおっしゃいませんで、意外にも、それを持ってくるようにと言われ・・感謝の祈りをささげた後、人々に配るようにと言われるのでした。 

・するとどうでしょう・・この後、男だけでも5千人。つまり約一万人の人たちが、これを食べたのですが・・足りないどころか、余ったパンを集めると、12のかごにいっぱいになったというのです。

③いったい何が起こったのか・・ 主イエス・キリストは・・何をなさったのか・・

・そのことを分かってゆくために・・ 私は、この少年の差し出した「パンと魚」に、注目すべきである、と思うのです。

・ヨハネの福音書は、この時の「パンと魚」について、ほかの福音書より、少し、詳しく記しています。

・9節をご覧ください。ここには、こう記されています。
「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。」

・マタイ、マルコ、ルカは、単に、5つのパン、2匹の魚と記しているだけですが・・このヨハネの福音書をよく見ると・・この時、少年が、「大麦のパン、と小さな魚」をもっていたことがわかります。

・パンは、普通、小麦で作ります。ではなぜ、この少年がもっていたのは、「大麦のパン」であったのか・・ですが・・。

・実は、大麦で作ったパン・・それは、普通は、奴隷が食べるパンでありました。

・当時、大麦は、家畜の餌でした。 しかし、小麦粉を買えない奴隷たちは、大麦でパンを作り、それを食べていました。 つまり、ここにいた少年は・・どうも、奴隷であったようです。

・ここにいた少年は・・どこかのおぼっちゃまで・・・おいしそうな高級パンをいっぱい持っていて・・気前がよく・・

・「おじさんたち・・食べもんがないんでしょ?・・あげようか?僕のパン、おいしいよ・・。 こういうパン買ったら高いんだよ。 僕はもういっぱい食べたから・・残っているのは5つだけで・・これでもいいならあげるよ・・ほら。・・」

・こんな感じで、この少年は弟子たちの所に、この食べ物をもってきたのではなかったのです。

④どういう、いきさつで、この少年が、奴隷になったのかはわかりません。しかし、はっきりっしていることは、少年でありながら奴隷となっているのですから・・彼が奴隷になっている、その原因は、彼自身にあるのではないということです。 

・おそらく、この少年は、両親の借金の肩代わりで、奴隷になったのだと考えられます。 つまり・・、この少年は・・貧しい家庭に生まれ、両親に奴隷として売り飛ばされた可能性が高いと思います。

・そういう事を考えますと・・私たちは、直ぐに、ひどい親もいるものだ・・そんな風に考えやすいのだと思います・・。しかし。それは・・ひどい親・・ということではないかもしれません。 両親は必死に働いて、そして、必死に、この子どもを食べさせて・・必死に守ってきたのかもしれません。

・しかし、一家全員が餓死してしまうより・・子どもを他の人に売って・・と、考えるしかなかったかもしれません・・。この時代は、そういう厳しい家庭が沢山あったのです・・。

・もしかすると・・この両親もまた・・自分の身を売り、奴隷となっているのかもしれません・・。あるいは・・両親は、もうすでに死んでしまったのかもしれません・・。

・また、当時、よくあったことは、子どもの誘拐です。 ですから、もしかするとこの少年は、どこかで、人に誘われて・・そして今、奴隷となっていたのかもしれません・・。

・いずれにせよ、奴隷となっていた彼の人生は・・彼が、物心ついたときには、もう既に壊されてしまっていたのでした・・。彼は、希望を見つけようとしても見つけることのできない、そういう人生の中にいました。

・そういうことを考えみますと・・この少年の心の中には・・言い尽くしがたい悲しみ、といいましょうか、無念さといいましょうか・・そういう思いがいっぱいつまっていたのかもしれません・・。

・「なぜ・僕は・・母や父と一緒に暮らせないのですか・・なぜ、僕は・・普通のパンを食べることができないのですか・・。僕がもし、普通の家庭に育っていたら・・普通の子のように、勉強もすることができたはずです。ああ・・なぜ僕は、奴隷になんかになっているのですか・・」

・そういう無念な思いが、心の中にありながらも・・なんとか生きて来た・・そういう少年であったのではないか・・私はそんなふうに、想像するのです。

○つまり、この「パンと魚」は・・そういう、無念な思いの中で、生きてきた一人の少年の、持っていたものであった訳です。

・このようなパン。このような魚。これは、人にとっては、粗末なパン、粗末な魚でしかありませんが・・しかし、主イエス・キリストにとっては・・このようなささげものこそ、・・最も尊いパン。・・最も大事な魚であったに違いありません。

・つまり、この出来事は・・主イエス・キリストが・・このような尊いパンと魚を祝福して・・この歴史的な、神さまの御業をなさってゆかれた・・そういう出来事であった・・と聖書は、そのことを伝えている・・・私はそう思うのです・・。

➄話が少し聖書から離れますが・・

・愛知県におりましたとき、私の教会は名古屋芸術大学の近くにありましたが・・そこに通っていたクラリネット専攻の川井えみさんは・・私たちの教会の自慢のクリスチャンでした。

・お若いのに・・実に、穏やかで、謙遜で、・・本当に砕かれたすばらしいクリスチャンでした。ですから、私は、きょうは、あえて、実名でお話ししたいと思います。

・ご実家は100キロほど離れた岡崎市にあって、彼女はそのクリスチャンホームで育ちました。

・ある日、その川井さんのお父さんとお会いする機会がありましたときに・・私は、まず、こう切り出しました。 
 「お嬢さんの、えみさん。 本当にすばらしい信仰者ですね・・」
・そうしましたら、そのお父さんから、こういう返事が返ってきたのでした・・。 
「ええ・・えみは本当にやさしい子です。 家でもどこでも同じです。 小さな時からそうでした。」
 「小さなころから、私たちの目になってくれていたのです。」

・実は、えみさんのご両親は、お二人共、目がご不自由でしたので、小さな頃から、えみさんは、ご両親の目となって生きてこられたのでした。 

・その時、私は・・「そうだったのか・・」と、思いました。「心からのやさしさ、人を労わる心、練られた品性は、このようにして生み出されるのかもしれない・・」そう思ったのです。

⑥聖書の記事に戻ります・・。

・この大麦で作ったパンと小さな魚を差し出した奴隷の少年は・・「もし、僕が奴隷でなかったら・・・ もし・・僕が、自由に生きていい、そういう普通の人間であったなら・・・ そういう、悲しみと・・無念さを・・心の中に秘めながら・・懸命に生きてきた・・そういう少年であったに違いありません

・そういう心優しい少年の持っていた、人の目には・・・何の役にも立たないように思えたパンと魚・・ その小さな、小さなささげものを・・主イエス・キリストは、この奇跡の御業に用いられたのでした。
 人からは、役に立たないと、思われた、そのパンと魚は、主イエス・キリストによって大きく役に立ったのです・・。

・ところで・・この少年は・・なぜ、この時・・自分の持っていた、パンと魚をささげよう、と、したのでしょうか・・。ここのところを理解することが・・大事なことだと思います・・。

・この少年は・・このパンと魚を渡したら、自分が食べるものがなくなってしまう・・と・・・どうしてそういう自己中心の考えをもたなかったのでしょうか・・。 

・私は、そういう計算よりも・・ もっと大きく、もっと強い思いが・・彼の心にはあったから・・ではないか・・そう想像するのです・・。

・食べることが出来ない、ということが、どれほど苦しいことなのか・・分かっている者だけが持っている心・・人の無念さが、どれほど苦しいものなのか・・、わかっている者だけが持つことが出来る、やさしい心・・・

・主イエスにとっては、そういう・・やさしく、真実な心こそ、なくてはならないものであったのではないでしょうか・・

・そういうわけで・・ 主イエスは・・この尊いささげものを祝福されて・・このささげものを用いて・・奇跡の御業をなさってゆかれた・・。私たちは・・そこを読み取ってゆかなければならない、と思うのです・・。

○私は思います。 主イエスは・「自分の人生が、ずたずたにされてしまった・・人生において、花を咲かせるようなことは全くできなくなってまった・・」

・そういう、無念さを持ちながらも、尚、ひたむきに生きておられる・・そういう、お一人お一人にこそ、主は 近くにおられ、・・そのような方々を、逆転の人生へと導いてゆかれてゆく方である、ということをです・・

・名もない、この少年の「パンと魚」・・そして、そこから始まった、主イエス・キリストの奇跡の御業・・それは、 その後の、迫害の時代、人々がキリスト者として生きてゆくことの勇気を失いそうになったときに、どれほど大きな力となったことでしょう・・・。これは、正に偉大な神さまの御業だったのです・・。

・私たちは・・ここに、人生の逆転を見ることができます。

・この少年は不幸に思えました。いや、確かに不幸でした。主イエスに出会うまでは・・また、彼は、人々からは、ただの汚れた奴隷と思われていました。

・彼の人生は・・確かに・・花を咲かせる・・そんな人生は、完全に絶たれていました・・。しかし、この少年の人生は、暗く悲劇の人生・・ただそれだけに終わらなかったのでした・・。

・私は、この少年こそ、偉大な御業のために役に立った、実にうらやましい人物であると思いうのです。

・この少年こそ、・・主の御業に用いられた、最も幸せ者の一人・・ということができるのではないでしょうか・・・。 花を咲かせる幸せよりも・・主の御業に用いられることの幸せを、彼はいただき・・こんにちまでも・・そのことが語り継がれているのです・・・・。

⑦ところで・・・私たちは、このパンと魚は役立ちそうにない、と・・人々が考えていた・・弟子たちまでもそうであったという・・この記事を見て来たのですけれども・・・・
 
・では、・・ここにいた、イエスさま以外の人、全員が、このパンと魚を・・役に立たないものと考えていたのか?といいますと・・ 実は、そうではなかった・・ ひとりだけ・・そんな風には考えなかった人がいたことを・・私たちは忘れてはいけないと思います。

・それは・・誰か?・・そうです。それは、言うまでもなく・・このパンと魚の持ち主の・・この少年です。

・彼は、「これこそ、役に立つ!」 勿論、そんな風には思ってはいなかったでしょう・・。しかし、・・「こんなものじゃあ・・イエスさまのお役には全然立たないのではないか・・」などとは、考えなかったのです。 ですから・・・弟子たちに、そっと、自分がパンと魚を持っていることを伝えたのでした・・。

・この少年の心は・・あれこれとよけいな心使いをするような複雑な心ではなく、・・正に澄んだ心でした。
 ですから・・少年は、ただ、一つの心で、「ここに・・パンと魚がありますが・・」そう言いながら・・弟子たちに、ただ、そのことをそって知らせたのでした。

・私は、「すばらしいなあ・・」そう思います。

⑧ところで、皆さんはこの5千人の給食の個所を改めて読まれて・・どのような感想をお持ちなられたでしょうか。

・私がこの個所を始めて読んだのは、もう60年近く前になります、その、若かりし日の私が、ここを読みましたとき、こう思いました。 → 五つのパンと二匹の魚が、約一万人の人たちを食べさせた。これこそ、奇跡の御業だ。

・しかし、今、熟年になった私は・・そういう風には読んでおりません。

・ここには、そのことよりも、もっと大きな御業、もっと大事な奇跡の御業が記されている・・そのことに注目させられています。

・それは・・主イエス・キリストは・・この世で最も弱い立場の一人であった、奴隷の少年の、その純真な思いを用いて、偉大な御業を行われた。この、名のない少年を、最も偉大ない御業に用いられたのだった。これこそ、愛と哀れみに富む主イエス・キリストの奇跡の御業・・そのように読んでいます。

・そうです。私たちの主イエス・キリストは、このように、最も小さな私たち一人一人を見つめておられるのです・・。そして、逆転の人生に導こうとされているのです・・。

・このことを覚えつつ・・今週もその方のまなざしの中にあって、御国に向かって果敢に前進してゆきたいと思います。

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