「新しい契約を結ぶ、その日が来る。」(エレミヤ31章31節)

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今回は、エレミヤ書から17回目のメッセージです。前回は、「私はあなた方のために立てている計画をよく知っているからだ。」(エレミヤ29章11節)とのテーマで語りました。エレミヤは、ダビデの子孫として生まれる救い主イエスの誕生を預言しています。イエスを含めて、新しいリーダーが起こされ、ユダの民は捕囚から解放され、希望を持って新たな国造りに取り組むのです。彼らは、70年近い捕囚の年月の中で、もう一度自分たちの信仰を回復して、エルサレムに戻って来ることとなります。神のご計画は偉大です。彼らは、神殿のない異国の地に住みますが、御言葉を読み、祈りを捧げ、毎週の安息を喜ぶ民となるのです。そして、信仰を回復し、神を見出して行くのです。神のご計画は、彼らに将来と希望を与えるものです。神様は私たちの人生もご存じです。それも、私たちの過去も現在も将来もご存知なのです。その神に信頼して、平安を、そして将来と希望を与えることのできる、神からのご計画を与えられて歩んでまいりましょう

今日は、エレミヤ書の30章と31章に入ります。旧約から新約に移る約束の言葉を取り上げます。その前に、その日との表現で表される終末の出来事をいくつか学んでみます。

エレミヤ書30章3節には、「見よ。その日が来る。主の御告げ。その日、わたしは、わたしの民イスラエルとユダの捕われ人を帰らせると、主は言う。わたしは彼らをその先祖たちに与えた地に帰らせる。彼らがそれを所有する。」とあります。ここでその日との表現で、イスラエルの民がバビロンから解放される日が来ることを最初に預言しています。その日との表現で、これから起こることを、また広く終末の時代に起こることを、預言しているのです。そのいくつかを見てみます。まず3節では、イスラエルの民の解放の預言です。そして8節と9節には、「その日になると、万軍の主の御告げ。わたしは彼らの首のくびきを砕き、彼らのなわめを解く。他国人は二度と彼らを奴隷にしない。彼らは彼らの神、主と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕えよう。」とあります。彼らの王ダビデとは、イエス・キリストを指す言葉です。捕囚から解放された民が、新たな王に仕えるのです。これは、将来メシアの王国を統治するダビデの子キリストの支配の預言であると理解することができます。今私たちは、もう一度戻ってこられるキリストの支配を待ち望んでいます。その支配は、10節に表現されているように、救いの完成をもたらします。そこには、平穏に安らかに生き、おびえさせる者は誰もいないと表現されています。キリストによる救いの完成とその結果与えられる心の安らぎを表しています。

その日との表現で2番目に、神の裁きが神の選びの民を迫害する者たちに臨むことが預言されています。ユダの民は罪を犯し、そのため神の裁きを受けるのです。30章11節の後半には、「しかし、わたしはあなたを滅ぼし尽くさない。公義によって、あなたを懲らしめ、あなたを罰せずにおくことは決してないが。」とあります。14節には、「あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いために。」と、裁かれるその理由が書かれています。しかし、神は一時的にバビロンを用いただけに過ぎないのです。バビロンもユダの民以上に大きな高慢の罪に陥って行きます。神の裁きは彼らの上にも確実に望むのです。そのことも、終末のその日に起こることとして16節に明らかに預言されています。

ユダの民は、解放された後エルサレムを再建することとなります。18節で、「町はその廃墟の上に建て直され、宮殿は、その定められている所に建つ。」と書かれています。そして19節では、「彼らの中から、感謝と、喜び笑う声がわき出る。わたしは人をふやして減らさず、彼らを尊くして、軽んじられないようにする。」とあるのです。終末のその日は回復の時であり、喜びの時でもあるのです。

そして21節で、「その権力者は、彼らのうちのひとり、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。」と書かれています。権力者、支配者との表現で新たなリーダーが建てられることが預言されています。神に近づく者、そして神に近づくために命をかける者とは、イザヤ53章の苦難の僕の姿を指しています。人類に罪の許しを与えるために、私たちの救い主イエス・キリストが、十字架につき、苦難を味わうのです。そのような預言の言葉と理解できると思います。そしてその苦難の僕の贖いの業によって、22節にあるように、「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」のです。

31章では、北イスラエルと南ユダの回復が起こって行くことが預言されています。アッシリアによって滅ぼされ、捕囚とされた北イスラエルも神の愛ゆえに回復されるのです。9節には、「彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。わたしは彼らを、水の流れのほとりに導き、彼らは平らな道を歩いて、つまずかない。わたしはイスラエルの父となろう。エフライムはわたしの長子だから。」とあります。南ユダだけではなく北イスラエルも神に許され、回復の道を歩くのです。これは大きな約束です。その内容は5節から22節に書かれています。11節には、「主はヤコブを贖い、ヤコブよりも強い者の手から、これを買い戻されたからだ。」とあります。神はヤコブを買い戻し、回復されるのです。ヤコブとは、イスラエルの民の父の名であり、贖いの業は、北も南も含めてイスラエルの民に起こるのです。神は愛に満ちたお方です。罪の赦しも回復をも備えたおられるのです。そして22節では、不思議な表現が出できます。そこには、「裏切り娘よ。いつまで迷い歩くのか。主は、この国に、一つの新しい事を創造される。ひとりの女がひとりの男を抱こう。」とあるのです。この表現は、結婚関係を通した表現で、民が創造主である神と固い信頼関係をつくり上げることを示しています。新たな民は主だけを礼拝するようになるのです。

また23節から26節までは、南ユダの回復の預言です。神はイスラエル民族を見捨ててはおられないのです。そして31節から34節まで、新しい契約が結ばれる、その約束が書かれています。新しい契約とは、新約の時代が来ると言う約束です。イエスを信じる民が起こされて、その約束が実現するのです。旧約の時代が終わり、新約の時代が始まる、そのような啓示の約束です。聖書こそ神の御言葉であると私たちは信じる者ですが、旧約から新約に移る、その約束が旧約の中に書かれているのです。それはとても重要なことであると私は思っています。

ゆっくりと31章31節から、34節までを読んでみてください。そこには、新しい契約の対象は、イスラエルの家とユダの家と書かれています(31節)。この表現は、霊的な意味で神の民を表しています。広く、現代の教会に向けて語られていると理解できます。私たち信仰者に神は新しい契約を結ぶと約束されたのです。その契約は、モーセの時与えられた契約と対比されています。モーセの十戒は石に書かれた契約です。それに対比して、キリストを信じる者たちの心に神の契約が書きしるされると表現されています。それは、聖霊が与えられて、聖霊の導きの中に信仰者が生きるようになるとの預言です(33)。そして、私たちの心に内住する聖霊の働きによって、神の導きを受け、聖書のみ言葉が示され、直接的に神を知り、神と交わる時が来るのです(34)。教会はペンテコステの時に誕生しましたが、この約束の一端を体験したのです。

皆さん、今私たちは、新約の時代、聖霊が働かれる時代に生きています。毎日、私は神と共に生きます、そして、聖霊の導きをいただいて生きてまいりますとの信仰を持って行きましょう。旧約の時代は終わったのです。新約の恵みの中で、キリストの赦しをいただき、キリストの愛の中に生きて行きましょう。

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