「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」ヨハネの福音書4章5節~14節_北澤牧師

  ↓メッセージが聞けます。(第一礼拝録音)
北澤牧師が体調不良のため、伊野牧師の代読になります。
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① 聖書は、荒野での試みに会われた後、宣教活動を始められた主イエス・キリストが、様々な人々と出会っていった、その出来事を記しています。

・きょうはヨハネの福音書4章に記されている、「サマリアの女との出会いの記事」を皆さんとご一緒に観てゆきたいと思います。

・場面は、サマリア地方の町、スカルという所にあった井戸の端(ほとり)です。

・「主イエスは、なぜ、こんなところに座っておられたのだろうか・・」と、誰もが、そう思います。

・3節と4節のところを見ますと、ここにちょっと気になる記述があります。 「主イエスは、ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。」

・地図を見ますと・・確かに、南のユダから、北のガリラヤに行くのには、北にまっすぐ進み、サマリアを通ってガリラヤに行く、この道が最短距離でした。

・しかし、当時のユダヤの人たちは、北のガリラヤ地方に行くのに、なぜか、サマリア地方を通らないようにしていたのでした。

 ・人々は、わざわざ、サマリヤ地方を避けて、一旦東に向かい、ヨルダン川を渡り、渓谷沿いの険しい道を選び、そこを北上して、ガリラヤに入って行くのでした。

 ・なぜそんな遠回りをしていたのか、と言いますと・・この疑問を解くカギが、9節にあります。
読んでみますと・・→「ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。」

・北イスラエル王国の首都であったサマリアは、昔、アッシリアに占領され、多くの人々が、他国に連れてゆかれました。 そこに、新しく入って来た他民族と残っていたものとの間で、いわば雑婚が起こり、今、サマリアの人たちは、純血主義の人たちから見れば、混血民族となっていたのです。
 また、昔にはなかった、偶像礼拝も行われていたようです。

・このようなサマリアの人々のことを、ユダの人たちは軽蔑していたのです。
 現代の私たちから見えれば、実におかしな感情ですが、これが当時の現実だったのです。

・そして、情けないことに、そのことで、両者は次第に反目し、互いに「けして付き合わない」そういう不幸な関係になっていたのでした。

・しかし、聖書は4節でこう記しました。「しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。」
これは考えさせられる言葉です・・。

・つまり聖書は、主イエス・キリストとは、このような方であった、と語っているわけです・・。

・そうです。人々は、人種の違い、文化の違い、生い立ちの違い・・そういうことによって、壁のようなものを造ってしまいやすいのですが・・しかし、主は、そのような壁はまったく視界に入っていない。
そういうお方でした。

 ・むしろ、その、人が、作り出してしまう無数の不幸な壁を突き抜けて、赦しのメッセージを届けてくださる方であったのです。

➁先日、車に乗り、ラジオをつけましたところ、パラダイス山本という方が面白い話をしておりました。

・彼は、グリンランド国際サンタクロース協会公認のサンタクロースなのだそうです。
日本で、公認サンタクロースは、この方一人なのだそうです。

・では彼が、どうやって公認サンタクロースになれたのか、と言いますと・・
厳しい試験を受けて合格したのだそうです。書類審査、英語かデンマーク語で自己紹介をするなど、
いろいろな試験があるのだそうです。 中でも、体力測定が一番厳しかったようです。

・なにやら、2分以内に、はしごで煙突に登り、煙突を通って居間にゆき、ツリーの所にプレゼントを置き、暖炉の上にあるクッキーを食べ終え、再び煙突に入り、煙突を出た後は、50メートルをダッシュしてゴールインする、 こういう試験なのだそうです。

・この話の後、この公認サンタクロースさんは、面白いことを言いました。

・それは、「サンタクロースは、どういう子どもの所に行くのか」についてでありました。
皆さんは、サンタクロースは、どういう子どもの所に行くと思われるでしょうか・・。

・このサンタクロースさんは、こう言ったのです。「サンタクロースは・・いい子の所に行きます。」

・これを聞きました時に、私は「え?」と思いました。そして、「それは、ちょっと違っているでしょう・・」そう思ったのです。

・「サンタクロースになるための試験に、やっぱり、聖書という科目を入れた方がいいのではないだろうか・・」そうも思ったのでした。

・そして、できれば、聖書を学び、「本当に行かなければならないのは、どういう人の所なのか」このことを、もう少し深く考えてサンタクロースさんをやってほしい、そんな風に思ったのでした。

・主イエス・キリストの行かなければならなかった所、それはサマリアでした。いい人のいる地方ではありませんでした。そして、そこに、一人の女性がやって来たのですが・・この人も、いわゆる「いい人をやっている」・・そういう人ではなかったのです。

③では、その、主イエスが、行かなければならなかった、会わなければならなかった、その女性とは・・
どのような人物であったのか、もう少し詳しく見てみたいと思います。

・この人がどういう人であったのか・・ これは、この人が登場したその時間から、一つわかることがあります。

・彼女は井戸の水を汲みに、「第六の時に現れた。」とあります。これは、現代で言うと、正午頃の事です。

・多くの聖書学者たちは言います。「厳しい暑さの中、正午頃水を汲みに来る者はまずいない。したがって、この人は、人目を避けて、ここに水を汲みに出て来たのに違いない。」

・先を読んでゆきますと・・、どうやら、彼女には、たくさんの負い目があったようです。
 18節を読むと・・この女性は元夫であった人が5人もいた。そして、今一緒に暮らしている人は夫ではない男の人であったようです。

・つまり、この人は、軽蔑されていたサマリアの人々の中にあって、その、サマリア人たちからも軽蔑されていた人。 人々から、疎外されていた人、人々から、人として認められていなかった人の代表のような人物であったのです。

・この人がどういう人であったのか、もう一つの事を申し上げなければならないと思います。
一言で言いますと・・それは、この人が、「物分かりのいい人とはとても思えない」ということです。

④主イエスは、この女性に、「わたしはあなたに、生ける水を与えることが出来ます。」と言いますと・・
 この女性は、「あなたはくむものを持っていないのに、どうやって、その水を手に入れるのですか」と聞き返すのでした・・。

・この人は、先ず、「比喩」ということが分からないようです。
 「水」と聞くと、ただ、「飲む水」しか、頭に浮かばないようです。

・この両者の、このずれは・・この先も・・ずっとずっと続いてゆくのでした・・。

・ですから、ヨハネの福音書4章を、丁寧に読めば読むほど・・大抵の人はとてもいらいらさせられます。
 そして、ほとんどの人がこう思ってしまいます。「この人は、何と、物分かりの悪い人なのだろう・・」

・ある人は、こう思ってしまうかもしれません。
 「このような人が、いのちの水のことを理解するのは、ちょっと無理なのではないだろうか・・」

・さて、では、この女性、この後どうなっていったのかですが・・やはり、大方の予想通り・・、彼女は、最後まで、結局、主イエスの語られた、そのいのちの水のことは理解できなかった様子でした。

・わかったような、わからないような・・中途半端な気持ちで、彼女は、町に帰っていった・・そのように見えました。

・では、この人の心には、主イエスのメッセージが、まったく届かなかったか・・。というと・・
実は・・そうではなかったのです。

・なぜ、そういうことが言えるのか、と申しますと・・その物的証拠がこの井戸の傍らに残されていたからです。28節にはこう書いてあります。→ 「彼女は、自分の水瓶を置いたまま町へ行き・・」

・毎日、その日の暮らしのことだけしか考えていなかった、そういう彼女が・・、自分の水瓶を残して、町に戻って行った・・これは、何を示しているのか、と言いますと・・

・そうです。彼女は・・今、間違いなく、・・「飲む水をくむことよりも、もっと、大事なことがある・・。」
そのことに、心から気付いていたのでした・・。

➄このサマリアの女の中にある、この弱さ・・これは、私と中にもある弱さだと私はそう思うのです。

 ・日々の暮らしを成り立たせてゆくことは、簡単なことではありません。 自分自身や、家族が・・、しっかりと食べて行ける・・この最も基本的なことを確立するだけでも、日々の努力が求められます。 

 ・ましてや、食べてゆく事さえ厳しい、そういう時代にあっては、私たちは、日々命をつないでゆくことに懸命にならざるを得ません。 

・しかし、そうこうしているうちに・・魂までもが、日々暮らすことに奪われてゆきそうになる・・。
そして、いのちの水について語られても、飲む水しか連想できない・・飲む水しか求めない心となってゆく・・
  いのちの水を求める・・そういう人間にとって、最も大事な心がいつの間にか失われてゆく・・ 

・どうでしょうか・・これは、私や、このサマリアの女の弱さ、というより・・生き物である私たちすべてのものの弱さ、というべきものではないでしょうか・・。

 ・では主イエス・キリストは、そういう私たちを、どのようなまなざしでご覧になっておられるのかです。
人々のように・・忌み嫌ったり、叱責したり、相手にしなかったり、見捨てたりしていったのでありましょうか・・。

・その逆でした。主イエスは、寧ろ、そういう人の所に行き、いのちの水をお与えになる方であったのです。

⑥私は、このヨハネの4章を読む度に、その主イエス・キリストのその優しさ。その愛の広さ、愛の深さ、その真実さ・・つまり、この、別次元の寛容さに、激しく感動させられるのです・・。

・普通、私たちは、このサマリアの女のように、ふしだらな人とは、なるべく付き合わないようにしてゆきます。親も、そして、学校の教師でさえそう教えてしまいます。 「君子危うきに近寄らず」です。

・また、話の分からない人、物分かりの悪い人、そういう人への評価は極めて低いものです。
大抵の人は、こういう人を好みません。 向き合うなら・・もっと、ちゃんとした人と向き合いたい・・
そう考える・・その方が普通です・・。

・言っても、言っても分からない・・そういう人を見ると・・どうしても、「この人はだめだ」という思いが心の中に浮かび上がってしまいます。

・しかし、主イエス・キリストの、そのあわれみ深さは、別次元ではないでしょうか・・。

・心は鈍く・・知性に欠け・・汚れた生活を送っている・・このような人も、正に、正面から向き合ってゆかれる方であったのです。

・別な箇所で主イエス・キリストはこう語っておられます。 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためなのです。」 ルカ5:32

・何という、寛容さでしょうか・・

・今週も、この主イエス・キリストによって、救われたものの一人として・・、この寛容さをもって、それぞれ、様々な場面で・・、この寛容さを証してゆけたら・・

・それはどんなに幸いな歩みでしょうか・・。それは、主イエス・キリストとともに歩む歩みだからです。

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