「まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。」(イザヤ65章17節) 第2

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今回は、旧約聖書のイザヤ書から23回目のメッセージです。前回と同様に同じテーマからの2回目のメッセージです。65章でイザヤの祈りへの神の応答は3つの部分からなっています。まず、異邦人が福音を聞き、神の民とされて行くという応答です。2つ目は、イスラエルの民への神の裁きは変わることがないとの厳しい応答です。しかしその中にも残された民がおり、この人たちは神の祝福を受けて行くと言う応答です。3番目には、新しい天と新しい地を神は創造すると言う応答です。17節には、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。」と書かれています。

前回、新しい天と新しい地を神は創造されること、この創造するとの言葉は無から有を創造することを意味していることに言及しました。新しい天と新しい地では、泣き声も叫び声も聞かれない。(19)とあります。人類に対する呪いからの解放が起こっています。人類はもはや呪いの下にではなく、神の祝福の下に置かれるのです。続いて20節には、「そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。」とあります。旧約時代では長寿は神の祝福のしるしです。人類が長寿を楽しみ、神の祝福の中に入れられるのです。また24節では、神と人との深い交わりが回復していることが教えられています。さらに、25節では、全き平和がこの地上にもたらされて行くことが預言されています。今回は66章を学びます。この66章では、神の至高性と神への礼拝に視点が置かれています。神への礼拝、その視点に目を注ぎながら学んでみます。そして、あなたの子孫と、あなたの名もいつまでも続く、との約束を握って行きたいと願っています。

66章22節には、「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、主の御告げ。あなたの子孫と、あなたの名もいつまでも続く。」とあります。新しい天と新しい地を創造される神は、あなたの子孫と、あなたの名もいつまでも続く、と約束されています。私たちは、救いの喜びを経験し、神との交わりを楽しみ、神を心から礼拝をする、そのような生き方を始めた信仰者です。イザヤはある意味、エデンの園の回復を見ているように思います。このテーマは新約時代に入り、イエスの十字架の死からの復活を通して、永遠に続く天国の約束へと続いて行きます。イザヤは永遠に神を礼拝する姿を22‐23節で表現しています。私たちの今の礼拝は永遠の世界の一端を経験するものであることに気づいて行きたいです。それでは、66章の全体を見てみます。

66章1節には、「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家はいったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。」と書かれています。地上に存在するどんな宮も、天地万物を造られた神様をお入れする事はできません。2節の後半には、「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」と書かれています。礼拝をする者は、神の前にへりくだり、罪の赦しを感謝し、神のみ言葉を素直な気持ちで受け入れて行くことが必要です。へりくだり、心砕かれ、み言葉を待ち望む、そのような姿勢を忘れてはいけないと思っています。心くだかれた者たちが、神を見上げ、神を礼拝するのです。その礼拝は、神殿でも教会でも各自の家でも、場所は関係ないのです。このことは、イエスとサマリヤの女の会話の中に明らかにされています。参照ヨハネ4:5-26。

ヨハネ4章21節に、「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」と書かれています。24節には、「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」とイエスの言葉が書かれています。場所にとらわれない新しい礼拝が始まったのです。その時に大切なのは、66章2節にあるように、礼拝者の心の姿勢です。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」との言葉です。そのような姿勢を持つ礼拝者になってまいりましょう。

66章3節と4節では、旧約の動物を捧げる礼拝の不十分さと、当時の礼拝者の外側と内側の心の不一致を表現しています。5節では、「主に栄光を現わせよ。そうすれば、あなたがたの楽しみを見てやろう。」と高慢になった偽りの礼拝者の言葉が書かれています。神はこのような高慢な礼拝者を裁かれるのです。

66章6節から9節には、新しい国を一瞬にして神は生み出すことができることが示されています。一瞬にして、神は礼拝者の民を、また礼拝者の国を誕生させることができるのです。そして、10節には、「エルサレムとともに喜べ。すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ。」と書かれています。神は地上のエルサレムを見捨てる事は無いのです。しもべとして新たに仕える民に向かって、イザヤは彼らが新しいエルサレムで慰められ、また繁栄して行く、そのような姿を預言しています。

18節から21節には、神を恐れる民をもう一度神が集めてくださる、そのような約束の言葉が書かれています。「わたしは、すべての国々と種族とを集めに来る。彼らが来て、私の栄光を見る。わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国に遣わす。」(18-19)と書かれています。ここでのしるしとは、救い主イエスの御業であると理解できると私は思っています。イエスの福音を聞き、礼拝者となった者たちが、エルサレムから世界に遣わされて行く。そして福音を伝え、神を礼拝する者たちを伴って、聖なる山、エルサレムに戻って来ると表現されています。さらに、21節には、ある者を選んで祭司とし、レビ人とするとありますので、世界から集められる新しい民がもう一度エルサレムで神を礼拝する姿が預言されています。

新しい天と新しい地で礼拝者たちが集い、真の神を喜びほめたたえる、そのような姿をイザヤは預言しています。新しい天と新しい地がいつまでも続くように、あなたの子孫と、あなたの名もいつまでも続く。と、22節に約束されています。私たち礼拝者は、神と共にいつまでも生きる者です。「毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る。」と23節にあるように、毎週の礼拝の喜びを体験する者でありたいと願っています。

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