イエスの最初の弟子 (マルコ1章16節-20節)_シーファン宣教師

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先月、ピーナッツ・バター・ファルコンという映画を見ました。アメリカの貧しい田舎が舞台で、ならず者の漁師がダウン症の青年と友だちになる話です。もちろん漁師が皆そうでないことはわかっていますが、映画に出てくる漁師は荒っぽくて、言葉は汚くて、体中に入れ墨があって、ライフル銃をいつ向けてくるかわからないような人たちでした。もし実際に会ったとしたら、怖い漁師たちでした。

マルコの福音書には、イエスの最初の弟子は漁師であったと書かれています。今日は初めてイエスが弟子を選ぶ場面のところを読んでみたいと思います。

(マルコ1:16-20を読む)

今日はまず、イエスの時代に宗教指導者たちがどのように弟子を選んだかについて少しお話しします。それから、神が私たちを評価する仕方と社会が私たちを評価する仕方が全く違うということ、そして最後に、人間をとる漁師になるにはどうしたらよいかについて、お話していきたいと思います。

〈何故イエスは漁師を選んだのか?〉

イエスの時代には、宗教指導者が弟子を自分から探しに行くことは普通はありませんでした。通常はその逆で、弟子にしてくださいと、弟子になりたい人が教師を求めていきました。

しかし、ラビと呼ばれていた宗教指導者/律法学者が弟子を探す場合には、高い基準があったんです。トーラというのは旧約聖書の最初の五つの書のことですが、トーラの学者は宗教の学問を終えようとしている学生の中から、とびぬけて優秀な学生を選び出していました。彼らは大体14、5歳の少年でした。選ばれなかった少年たちにラビは「家に帰って家の仕事を学びなさい。いずれ子どもが生まれたら、その子どもたちがトーラの弟子になるように祈りなさい」と言葉をかけていたそうです。

イエスの最初の弟子は漁師でした。ですから、彼らは誰かの弟子となる資格はありませんでしたし、そもそも弟子になろうなどとは考えなかったでしょう。漁師は多分家業だったでしょうし。

何故イエスは若く優秀な学生から弟子を選ばなかったのでしょうか。何故魚臭く、汗臭い労働者階級から選んだのでしょうか。彼らはイエスを求めてもいませんでした。イエスが彼らを呼んだ時、彼らは網を投げて漁をしている真っ最中でした。更にイエスは彼らが将来犯す失敗をもすでにご存じだったかもしれません。シモン・ペテロはイエスを知らないと三度否みました。ヤコブもヨハネも心の中の罪を明らかにされて、恥ずかしいこともありました。しかし、イエスは全世界に影響を及ぼすご自分の使命を果たすために、彼らを選んだのです。

〈イエスの視点は違う〉

イエスが何故この男性たちを選び出したのか正確にはわかりません。神は私たちが予想もしないことをよくされますね。私はそれが大好きです。神の視点や方法は私たち人間とは違いますね。

イエスはへりくだった漁師たちを選びました。このことから、社会では並だとかふさわしくないとか見過ごされるような人々に、神が価値やポテンシャルを見出していることがわかります。世界中に広がり、二千年も続くムーブメントのリーダーにシモン・ペテロとその友人たちがなろうとは誰も予想しなかったでしょう。

私たち人間は外見で人を判断しがちですね。アメリカ人のレクレーというラッパーをご存じでしょうか。彼はグラミー賞二つを初め、たくさんの音楽の賞を受賞しています。

レクレーは母子家庭で育ちました。幼稚園の頃から、トイレに爆竹を仕掛けたりする問題児でした。16歳の時にはドラッグや窃盗(せっとう)に手を染め、乱闘やギャングに加わっていました。彼は救いようのない少年だと教師は言いましたが、神は違いました。今日(こんにち)、彼はラップとヒップホップで、福音の希望を人々に伝えています。
社会はレクレーを見放しましたが、他のクリスチャンを通して、イエスは彼にこう語りかけました。「社会はあなたのことをよく思っていないかもしれないが、わたしにとっては十分過ぎるほどの存在だ。あなたの見た目は、今は小さなからし種のようだけれども、これから樹となっていく自分の姿を見ることができるよう切に願っている。」

レクレーは一夜にして変わったわけではありませんでした。19歳で神に生涯を捧げてからも、22歳の時に恋人の妊娠、中絶など、過ちを犯し後悔することがありました。しかしレクレーが小さな種から樹へと成長していく過程の中で、神は彼を守りました。私たちに対する神の愛と忍耐は驚くほど大きなものなのです。

今までとは違った角度から人々を見てみなさいと、イエスは私たちに語りかけているのではないでしょうか。イエスは取税人、売春婦、重い皮膚病の人々など社会では蔑(さげす)まれていた人々と時間を共にしました。イエスの弟子として、私たちの主人、イエスの人々に対する視点を学ばなくてはなりません。たとえ人間の心は罪で壊れていて醜くとも、愛をもって神に似せて造られた私たちは、神のかたちをとどめています。

そう考えるとイエスが粗削りの漁師たちを側近の弟子として、同僚として、また仲間として選んだことは驚くことではありません。

〈イエスはあなたと私をご覧になった〉

今日のマルコの箇所をじっくりと読んでみた時に、イエスがこの漁師たちに気付いて、そして目的を持って彼らに焦点を当ててくださったことに感動しました。この箇所で2回も「イエスはご覧になった」とあります。16節ではイエスはペテロと兄弟のアンデレを、19節ではゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネをイエスはご覧になりました。イエスにとって、彼らはただ裏方で働く普通の労働者ではなかったのです。

自分は特別な人間ではないと思っている人は多いですね。また、自分はまだまだ足りないとか、才能がないとか、自分はだめだと感じている人もたくさんいると思います。私もそうなので、よくわかります。

小さい頃からの両親の言葉から、親戚がすごいねと言うような職業に就かないといいとはいえないという両親の考えが伝わってきていました。

私が会計士や医者ではなく、英語の教師になっていることに父はがっかりしていると思います。私自身は自分の性格や興味に合っている仕事を選べて嬉しく思っています。でも今も、時々自分は負け組だと感じることもあります。両親の価値観というのは本当に大きな影響力を持っています。親に加え、社会全体が「あなたはこうでなければ立派でも重要でもない」という強いメッセージを発しているように思います。

今日の聖書の箇所は、イエスと社会の、私に対する視点が違うことを教えてくれます。イエスは私のために命を惜しまないという思いで、私をご覧になります。父なる神は、私を愛する子としてご覧になります。決して私を「稼ぎが少ない息子だなぁ」などとは思いません。

私の人間としての価値は自分で手に入れるものではありません。与えられるものです。自分で価値を手に入れようとしたり、神以外の誰か人間から得た価値はしばらくは心地よく感じるかもしれませんが、とても壊れやすいものです。

神は私への愛をもって、価値を与えてくださいます。神の価値は私の生き方を変えてくれます。他の人にすごいと思われたり、人の期待に応えるために働くのではなく、神の喜びと栄光のために自由に働くことができるのです。

〈人間をとる漁師になるには〉

神の喜びと栄光のために働くとはどういうことでしょうか。いろいろなクリスチャンの方に尋ねてみると、様々な素晴らしい答えが返ってくると思います。今日は、今日のマルコの箇所の文脈に合わせて、私の考えを述べたいと思います。

イエスは漁師たちに、魚をとる以外にも目を向けるように呼びかけました。イエスは彼らに人間をつかまえてほしいと思われたのです。え?食べるために? いいえ、人々にイエスのメッセージを聞かせるために。人間をとる漁師になりなさいという召し/呼びかけは、現代のクリスチャン一人一人に対するものでもあります。

神の喜びや栄光のために働くとはどういうことでしょうか。それは私の場合、英語教師の仕事で単にお金を稼いだり、自己実現するためではありません。お金も自己実現も大事なことですけれども。私は、自分の仕事が生徒さんたちを神へ導く一つのルートとなるように、仕事を神に捧げています。

信仰について何か聞かれたら、私はいつでも答えられるようにしています。実際、生徒さんたちはたまに聞いてきます。また、自然な形で機会がある時には、神から影響を受けている私の人生観や考え、出来事などを短くお話ししたりします。

宗教的な話題になることはそんなにはないのですが、それでいいと思っています。結局、クリスチャンの信仰というのは宗教の話をするだけではありません。私たちの信仰は人生のあらゆることに繋がっています。政治からポテトチップスまで、地上のあらゆることに繋がっているのです。「死後の世界を信じていますか」というような質問に答えることだけが、信仰について語ることではありません。そして信仰を伝えることは私たちの言葉にとどまらず、私たちの行動でも伝えることができるのです。

言葉でも行動でも、イエスの素晴らしさを伝えたいものです。第二コリント2章14節でパウロは、自分の仕事をこのように表現しています。「至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます」と。福音がよい香りのする花や香水のようであったら、そのよい香りを楽しんだ私たちは、他の人と分かち合うように召されています。私たちの生活そのものがこの甘い香りを発するべきです。手や首だけではなく、全身から、そして心の中から。

私たちがすべきなのは、ただ「信仰」という商品を人々に買ってもらうとか、「クリスチャン」の会員登録をしてもらうということではありません。人間をとる漁師になるためには、私たちは実際に人生が変えられるという経験をしなくてはなりません。普通は劇的に変えられる経験というよりは、一日一日変えられていく経験です。そして私たちを通して、人々が神に導かれるように祈るのです。

人々を導く時に具体的にどんなことが起こるかは、一人一人違います。あなたが人生のあらゆるところに神を受け入れる時に、神はあなたを通して働かれます。さっきお話ししたラッパーのレクレーにとって、福音を伝える手段は音楽でした。彼は音楽を通して、ラップが大好きな人たち、一般のリスナーかもしれないし、ミュージシャン仲間かもしれないし、そういう人たちに福音を伝えています。そしてきっと、レクレーは自分の職業を通してだけではなく、自分の普段の生き方を通して人々をイエスの元に導こうとしていると思います。

神の素晴らしさを自ら味わうことがまずはスタートです。それは私たちが常に立ち返るべき原点です。義務感から人間をとる漁師になるのではありません。クリスチャンだからそうあるべきだといってするものではないのです。まず、神がどれだけ偉大なお方かを知ることができるように祈りましょう。私たちは、神のように人に気付き、人を愛せるように、私たちを成長させてくださるよう神に祈りましょう。そして神の素晴らしさを伝えるにはどうしたらよいか神に尋ね求め、他の人々もそれを味わうことができるように祈っていきましょう。

〈結び〉

最後に、質問で終わりたいと思います。後でじっくり考えてみてください。

  • 自分自身をどう表現しますか。あなたのセルフ・アイデンティティは社会の基準と神の視点のどちらに、より影響を受けているでしょうか。
  • あなたが見下しがちなのは誰ですか。神がその人を愛していることを想像できますか。その人について何か新しいことに目を開かせてくださいと神に祈りましょう。
  • あなたは最近神の素晴らしさを味わいましたか。神の素晴らしさをもっと経験するには何ができるでしょうか。

この質問の一つが、今週のあなたの神との旅路の助けとなるよう願っています。

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