「彼らは、私の名が主であることを知る。」(エレミヤ16章21節)

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今回は、エレミヤ書から10回目のメッセージです。前回は、「御名のために、私たちを退けないでください。」(エレミヤ14章21節)とのテーマで語りました。14章で、エレミヤは、嘆きと懇願の祈りを捧げます。南ユダは、神によって滅ぼされる。そのことを受け入れても、エレミヤはあなたの御名のために私たちを退けないでください、と心から祈ります。「栄光の御座をはずかしめないでください。あなたが私たちに立てられた契約を覚えて、それを破らないでください。」そう続けて祈ります。その祈りこそ、彼の心からの祈りであったと思います。エレミヤにとっても、エルサレムは神の栄光の御座がある場所なのです。神の御座を求める、また神との契約を覚える、その祈りは、私たちも捧げるべき祈りです。私たちクリスチャンは、キリストにあって罪赦され、神の民とされ、神を礼拝する者となりました。恵みの契約にとどまって、礼拝を捧げ、神の恵みに留まる祈りを捧げてまいりましょう。

今回は、エレミヤ書16章21節のみ言葉、「彼らは、私の名が主であることを知る。」との言葉をテーマとして取り上げます。その前に簡単に15章の内容に触れてみます。エレミヤの心からの祈りに対する神の明白な答えが、15章には書かれています。15章1節、「主は私に仰せられた。たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない。彼らをわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。」とあります。本当に厳しい神の答えです。そして神の裁きは、3節で、「4つの種類のもので彼らを罰する。」とさえ書かれています。その理由として、4節に、「わたしは彼らを、地のすべての王国のおののきとする。ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行ったことのためである。」とあります。マナセほどの悪王はいなかったのではと思います。彼は、エルサレムの神殿に他の神々の像を建て、偶像礼拝に民を導いた王です。それだけではなく、神の預言者イザヤを殺したとも言われています。神の厳しい裁きは現実に望むのです。ところが、心からの祈りを捧げるエレミヤについては、15章11節で、「主は仰せられた。必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」と答えています。また、厳しい現実の中で、エレミヤはみ言葉を求めつづけます。16節には、「私はあなたのおことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのおことばは、私にとって、楽しみとなり心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。」とあります。困難の中、エレミヤは神のみ言葉によって養われて行くことを選んだのです。み言葉を愛し、深く味わい、黙想し、み言葉が自分の体の一部となる、そのような道を選んだのです。

そして15章19節、20節で、神はエレミヤに再献身を求めます。「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせよう。もし、あなたが卑しいことではなく、尊いことを言うなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。わたしはあなたを、この民に対し、堅固な青銅の城壁とする。」と書かれています。厳しい現実の中でエレミヤは神のみ言葉に立って、もう一度預言者として神に従って参ります、との決断をすることになります。

16章に入ると、神は具体的に3つの命令をエレミヤに伝えます。実に厳しい命令で、厳しい現実に対応する内容です。16章2節には、「あなたは妻をめとるな。またこの所で、息子や娘を持つな。」とあります。国を失うような厳しい現実の中で、家族を持つなと命じられるのです。2番目は、5節で「あなたは、服喪中の家にはいってはならない。悼みに行ってはならない。」とあります。それは悲しみがエルサレムをおおうことになるからです。3番目は、8節で、「あなたは宴会の家に行き、いっしょにすわって食べたり飲んだりしてはならない。」と言う命令です。その理由として、「あなたがたが生きているうちに、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶やす。」と9節にあります。そのような厳しい現実にふさわしく対応せよ、との神の命令であると思います。神の裁きは明白です。10節から13節読んでみますと、その理由が明らかにされています。民が神を捨ててしまった、他の神々に従って行ってしまった。また、神の律法を守らず、神の御言葉に聞き従わない。それ故に、彼らは他の国へ連れて行かれ、他の神々に仕えるようになる、と理由が説明されています。これこそ、バビロンによってエルサレムが滅ぼされ、多くの民がバビロンに捕囚とされて連れて行かれる、バビロン捕囚が起きる理由です。私たちは、バビロン捕囚はとても悲しい出来事であると思います。ところが神様の視点は少し違います。

14-15節には、イスラエルの民が出エジプトを経験したように、バビロンから解放されて、イスラエルに戻ってくる時が訪れるとの神のご計画が明らかにされています。バビロン捕囚があるのならば、バビロンからの解放もあるのです。「イスラエルの子らを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる。」と書かれています。解放の技、それは神の新たなご計画です。少し立ち止まって考えてみましょう。罪を犯したイスラエルは裁かれる。国を失う。そして他国の民に仕える。しかし、その中で、もう一度彼らはみ言葉に立ち返り、神を信じて生きようと決断をするのです。そうであるならば、神様は新しい道を彼らに備えてくださっておられるのです。それらの出来事を諸国の民は目撃するのです。本当に神様は真実なお方です。神は人間に新しい希望を与える方、それらのことが諸国の民に明らかにされて行くのです。

19節には、「主よ。私の力、私のとりで、苦難の日の私の逃げ場よ。あなたのもとに、諸国の民は地の果てから来て言うでしょう。私たちの先祖が受け継いたものは、ただ偽るもの、何の役にも立たないむなしいものばかりだ。」とあります。諸国の民がイスラエルの民の姿を見て、偶像は何の役にも立たない虚しいものばかりだ、私たちの信じる神々もそうだと、信仰の告白に至ると言うのです。20節で、「人間は自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない。」とあります。ですから、バビロンからの解放の技を成してくださる神の御業に人々は驚くのです。21節では、「だから、見よ。わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手とわたしの力を知らせる。彼らは、わたしの名が主であることを知る。」とあります。神の視点は、諸国の民がイスラエルの姿を見て、神がおられること、神は力強いお方であること、その方が苦難の日にくすしい業をされることに気づくようになるのです。「彼らは、わたしの名が主であることを知る。」とは、そのような意味を含む言葉です。私たちの人生も同じであると思います。私たちは、キリストを信じて変えられたのです。そして罪深い歩みから解放されて、救いを喜び、神との交わりを喜ぶようになったのです。さらに、神に感謝を捧げ、神に栄光をお返しする、そのような人生を歩むようになったのです。私たち信仰者は、良い証を成していく民です。私たちを変えてくださった神を、未信者の友人や家族が、いつか気づく時が来ることを信じてまいりましょう。

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