「私の生まれた日は、のろわれよ。」(エレミヤ20章14節)

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今回は、エレミヤ書から13回目のメッセージです。前回は、「あなたがたも、わたしの手の中にある。」(エレミヤ18章6節)とのテーマで語りました。エレミヤ書18章6節には、「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたにすることができないだろうか。 ―主の御告げ。― 見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ。あなたがたも、わたしの手の中にある。」とあります。神様はエレミヤに、ちょうど陶器師がなすようにイスラエルを壊し、また作り替えようとする神のご計画を伝えています。私たちの人生も同じです。私たちの人生は神の導きの中にあり、古いものが壊され、新しいものに造り変えられるのです。私たちを命を懸けて愛してくださったイエスは、罪からの解放を与え、新しい人生に私たちを導いてくださいます。神は、私たちが古い人格にとどまって生きることを願ってはおられません。キリストにある者は、全てが新しくなるとの御言葉が与えられています。陶器師である聖霊様に、私をあなたの器として造り変えてくださいと祈る者でありたいです。

今回は、20章に入ります。20章では、エレミヤが逮捕されると言う出来事が最初に出てきます。そのような環境で、エレミヤは預言者として立つことの厳しさを経験します。そのような試練の中での彼の祈りに、今回は触れていきたいと思います。

20章1、2節には、「祭司であり、主の宮のつかさ、監督者であるイメルの子バシュフルは、エレミヤがこれらのことばを預言するのを聞いた。バシュフルは、預言者エレミヤを打ち、彼は主の宮にある上のベニヤミンの門にある足かせにつないだ。」と書かれています。神の裁きがエルサレムに近づいていると語るエレミヤの言葉を、この監督者であるバシュフルは聞いたのです。監督者は間違った教えをする者を捕えることができる立場にあったようです。バシュフルは祭司であり、つかさであり、監督者であると紹介されており、エレミヤの預言に強く反発を覚えたようです。エレミヤは絶えずエルサレムに臨もうとする災いを預言していたからです。このバシュフルは、偽預言者に影響受けた1人であったようです。

3節で、「翌日になって、バシュフルがエレミヤを足かせから解いたとき、エレミヤは彼に言った。主はあなたの名をバシュフルではなくて、恐れが周りにあると呼ばれる。」と書かれています。恐れが周りにあるとの表現は、神の審判が下る時に、周辺の人々も恐れることを表す言葉です。エレミヤもエルサレムが神によって裁かれるとのメッセージを頻繁に語ったために、エレミヤ自身も、恐れが周りにあるとの言葉を用いて、批判されていたようです。エレミヤはこの言葉を用いて、偽預言者に耳を傾けるこの祭司の周りに恐れが訪れることを預言します。彼は、バビロンに連れて行かれ、そこで死に、そこで葬られると悲しい言う内容です。彼だけではなく、彼の周辺の人たちも、彼の愛するすべての者も捕囚とされると、6節にあります。恐れが確実にエルサレムに近づいています。

7節からこの章の最後までは、エレミヤの祈りが書かれています。この祈りは私たちの心に深く訴えてきます。このエレミヤの祈りは、戦時下の状況で神に仕えることの難しさをよく表している祈りです。ロシア国内にあるロシア正教会の中にも、同じように迫害や弾圧が起こっているとの新聞の記事に最近接しました。戦争はよくない、そう語るだけで逮捕され、裁判を受ける祭司がおられたようです。かつて日本もそうであったように戦時下で神の御言葉を語る、そのことの大変さを私たちは理解できると思います。ここでのエレミヤの祈りは、エレミヤの心の葛藤がよく示されている祈りです。少し注意深く見てみましょう。

7節には、「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。」とあります。エレミヤは、群衆に見えるような形で門につながれ、1日中放置され、物笑いとされたのです。その時のエレミヤの心の苦しみがよく表現されています。私は物笑いとなっている。そしてそれ以上に、私を預言者としてお立てになった神様が私を惑わしているのでは、との叫びをあげています。惑わすとは神様に裏切られたとの思いを含む表現です。

8節には、「私は、語ることに、わめき、暴虐だ、暴行だ、と叫ばなければなりません。私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。」と書かれています。南ユダがバビロンによって滅ぼされると言うメッセージは、暴虐だ、暴行だと叫ぶ言葉に要約されています。しかし、多くの民も指導者も聞く耳を持たないのです。9節には、「私は主の言葉を宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい、と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」とあります。民に受け入れられない主の御言葉をもう語るまいと、内心では思っても、エレミヤの心の中に、神の言葉を閉じ込めておくことができない、との思いが表現されています。預言者として召されたエレミヤの心の苦しみが現れています。

10節では、民はエレミヤがつまずくのを期待し、彼に復讐してやろうとその機会を狙っています。11節では、「しかし、主は私とともにあって、横暴な勇士のようです。ですから、私を追う者たちは、つまずいて、勝つことができません。彼らは成功しないので、大いに恥をかき、それが忘れられない永久の恥となりましょう。」とあります。神はエレミヤと共におられるので、彼を攻撃する者たちが大いに恥をかく時が来るようにとの彼の祈りです。12節には、「正しい者を調べ、思いと心を見ておられる万軍の主よ。あなたが彼らに復讐されるのを私に見せてください。あなたに私の訴えを打ち明けたのですから。」とあります。エレミヤはここで自分の思いを訴え、1つの祈りを終えます。

13節では、内容が変わり、主をほめたたえる祈りが始まります。「主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主が貧しい者のいのちを、悪を行なう者どもの手から救い出されたからだ。」とあります。エレミヤは迫害に会いますが、主の助けがその時に与えられたのです。自らを貧しい者と認めて、神の助けが絶えず与えられていることを感謝しています。

14節から18節までは、エレミヤは自分は生まれなかった方が良かったとの祈りを神に捧げています。読者はきっと私を含めて、違和感を覚える内容であると思います。14節には、「私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。」とあります。神の都であるエルサレムが滅ぼされる。異邦人によってイスラエルの民が支配され、苦しみに合う。このような危機に直面しているエレミヤにとって、生まれなかった方が良かったとの祈りは神の民を愛する預言者として、彼の真実な祈りであったと私は思います。18節で、「なぜ、私は労苦と苦難に会うために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。」と祈りを終えています。これらの祈りは、彼の召命の厳しさの中から出て来たもので、裏返せば彼の使命感の現れであると理解することができると思います。確かに愛すべき者たちが滅んでいく姿を見ることは辛いことです。しかし、人の理解は限定的です。神は永遠で、全能なるお方のお方であるからです。神のご計画の全体を、人は理解することは不可能です。困難な経験を人に与え、その経験を益に換える、神はそのようなご計画をもたれる方です。神は試練を与えますが、確かにその試練の先に脱出の道も備えておられるのです。全てを益に換えてくださる神を信じて、どんな困難にも踏みとどまれる信仰者でありたいと願っています。参照、ローマ8:28、第一コリント10:13。

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