「私たちを恥から救い、栄誉を授けてくださるイエス」(マルコ5章)

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マルコの福音書を読んでいます。今日は、イエスが私たちを恥から救い出し、栄誉を授けてくださるということについてお話したいと思います。

栄誉と恥という考えは多くの文化にあります。日本でいうと、例えばここ数年、皇室にいた眞子様と一般人との婚約が話題に上っていましたね。彼はあらゆる角度から念入りに調べられました。彼は皇室の一員と結婚するにふさわしい人物だったでしょうか。この若い青年の母親には金銭トラブルがあったことから、多くの人がこの結婚に反対しました。このトラブルによって彼の評判は落ち、栄誉ははがれ落ちてしまいました。皇室はそのようなスキャンダルを避けるべきだと多くの人は思ったでしょう。

栄誉と恥は人間関係や生き方に影響を与えます。私たちはVIPや成功者を褒め称えます。褒められたいがゆえに、人は一生懸命頑張ります。何か間違いをしてしまったら、人は恥ずかしい思いをします。私たちは、他人に知られたくないようなことは隠します。それは、私たちが人に拒まれるよりは、受け入れられ、更には称賛されたいという願望が根底にあるからではないでしょうか。

栄誉と恥の概念は、今日の聖書箇所と関係していると思います。マルコの福音書5章では、イエスが手を差し伸べた3人の人が登場します。汚れと恥の中から、この3人をイエスはどのように救ったのか、見ていきたいと思います。それでは聖書を読む前にお祈りします。

(マルコ5章を読む)

汚(けが)れと恥  

イエスが救った人たちはユダヤ教の律法によって、宗教的に汚れているとされていました。悪霊につかれた男はその悪霊によって汚れていました。またその男は異邦人で、ユダヤ人は異邦人を汚れているとみなしていました。出血をしている女性もレビ記15章(19節~33節)に書かれているように、汚れているとみなされていました。彼女が触るもの全ても汚れているとされ、汚れを除去するためにするべきことも伝えられていました。また、亡くなった人も汚れているとされていました。死体に触れると汚れてしまうとユダヤ人は考えていました。(民数記31:19)

彼らの汚れがどのように恥の概念と結びつくのか、説明したいと思います。

悪霊にとりつかれている男は自覚をしていないとしても、彼の家族はきっと悲しんでいたでしょうし、そのことを恥ずかしく思っていたでしょう。出血をしている女性も、自分の体を患い、貯金も全て使い果たし、他人に頼らざるを得なくなっているのに、病のことを知った人たちに汚れていると敬遠されることを、恥だと感じて苦しんでいたことでしょう。

ヤイロの娘についてはどうでしょうか。社会的な恥ではないかもしれませんが、死自体が人間の恥と関係しています。これについては後で話したいと思います。

要するに、汚れていることで、3人の人物は他の人々と分け隔てられたのです。同様に恥というものが人間関係やコミュニティに亀裂を生じさせます。そしてもちろん死は、最終的な別れです。

汚れは表面的な問題にすぎません。清くなる方法はあるからです。しかし恥というのは簡単には取り除けるものではありませんよね。

世の始まりから存在する栄誉と恥の考え

恥という考えは、人間と共にほぼ最初から存在していました。しかし人間が最初に造られた時、私たちは誉れある場所にいました。

最初の人間であるアダムとイブは創世記2章25節で「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった。」と書かれています。

そして、詩編8篇には、「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれに心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」(4節-5節)とあります。

エデンの園は罪と恥が存在しない場所でした。しかし、アダムとイブが罪を犯してしまってからは、彼らは葉っぱで自分を覆い、神から隠れました。彼らの罪と恥が、神とそしてお互いの親密な関係を壊してしまったのです。

エデンの園から追放されたアダムとイブは「命の木」から食べることができなくなって、死が全人類の宿命となりました。

人生でどんなに高い地位にいたとしても、結局私たちは、元の塵(ちり)に戻ります。栄光のために造られた私たちは、今や恥の中に生きています。

私たちは祖先であるアダムとイブの恥と罪の報いを背負い続けます。つまりそれは死です。イエス様が私たちの恥を取り除き、誉れと命を与えてくださる時まで、私たちは死という報いを背負い続けるのです。

恥を取り去ってくださるイエス

今日のマルコ5章で、イエスが3人の人たちから汚れを取り除き、再びコミュニティで生きていく力を与えてくださいます。

悪霊につかれた男が癒された時、イエスは彼に家に、そして家族のもとに帰るように言います。また、出血をしていた女性を癒した時は、イエスはこの女性が治ったことを人々に宣言し、彼女を社会的に復帰させ、更に彼女の信仰も褒めてくださいました。この若い女性は家族と共に、再び喜びをもって生きていくことができたでしょう。

イエスは、社会に門を閉ざされたどんな人でも迎え入れてくださり、思いもよらない方法で、その人たちに尊厳をお与えになります。他の福音書にイエスが社会で見放された人々と食事をしたと書かれています。他のユダヤ人は、清くないとされる人々との交わりは避けていたと思われますが、イエスは恐れませんでした。このような人々の汚れでイエスの清さが失われるのではなく、イエスの清さが彼らに移っていくのを私たちは見ることができます。

イエスは、私たちの恥ずべきところに目をつぶって、まるでそれが存在しないかのようにはなさいません。そうではなく、イエスは私たちの恥ずべきところを取り除いた上に、その恥を私たちに代わって背負ってくださるお方です。

イエスの時代、ローマ帝国の十字架刑は、死刑の中で最も屈辱的な刑でした。巨大な領地を保有していたローマ帝国は、激痛を伴う十字架刑によって犯罪人を公に辱めることで、犯罪や反乱を抑えつけようとしていました。

十字架の上でイエスは私たちの一人、つまり辱めを受け、恥を知る人となられました。しかし、その後でイエスは誉れとして、再びよみがえってくださいました。へブル12章2節には「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」とあります。

死も罪の力もイエスには何の威力もありません。イエスを通して神はサタンの支配から世を取り戻そうとしておられます。イエスはアダムの罪の呪いを打消し、覆(くつがえ)そうとしておられます。こうして神の御子であるイエス様は、私たちの世に神の国をもたらそうとしておられます。

誉(ほま)れを与えてくださるイエス

神の御国で私たちは受け入れられ、命と栄誉さえも与えられます。それは、神の子どもとして認められるというような栄誉です。

イエス様が私たちを罪から救ってくださることや、神の目にかなった義なるものに変えてくださることをよく私たちは話します。しかし、イエス様が恥や辱めからも私たちを救ってくださり、神の子とされる栄誉をも与えてくださることにも、私たちは感謝するべきではないでしょうか。第一ペテロ2章6節には「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない」とあります。英語を直訳すると、「彼に信頼する者には、決して恥をかかせない」という意味です。

イザヤ61章はこの栄誉を見事に表現しています。福音書にはイザヤ61章のみことばを読んだイエスは、この章がイエスによって成就されようとしていることを人々に話したと書かれています。時間のある時にイザヤ61章全てを読んでみてください。今は二つの節だけ読みます。

まず、イザヤ61章7節「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」

もう一つは10節で、栄誉を与えられるのはどんな感じなのかを教えてくれます。「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」

まるで美しさと栄光を身にまとうようですね。

適用

さて、栄誉は神からくるものだと思うと本当に慰められます。

私がマレーシアに帰国するといつも父は、私の従兄(いとこ)がいかに出世して成功を収めているか話すんです。「お前の従兄(いとこ)の誰々はイギリスで医者になって、財産もいくらくらいあって…。」という具合です。そのような時、私は息子として父に栄誉というか誇らしい気持ちをあげられていないなと感じます。何故なら、私は父が望むような成功を収めていないからです。父が父自身のことを「失敗作だな」とこぼしていた時もありました。父がそのように自分について率直に語るのを聞いて、私はショックでした。父がいつか神の目からの事実に目を向けられたらいいなと、私は願っています。今イエスと恥と栄誉についてお話していることを、その時は父に伝えることができませんでした。でも、ただ受け身で聞くだけではなく、父の考えに反論できたので、それはよかったです。

私は父にこう言いました。「私たちの家族は失敗ではないよ。家族としていろいろなことがあったけど、まだ終わってしまったわけではない。私たちはお金持ちとはいえないかもしれないけど、もっと悲惨な状況になっていてもおかしくなかったよと思うよ。兄さんも私も元気にやっているし。気付いていると思うけれど、これはイエス様と教会の方たちのおかげなんだよ。」

私は、父の視点が他人と比較することや競争することから変わってくれたらいいなと思いました。そしてイエス様が私たちの家族になしてくださったことに、父が目を留めることができるようにと願いました。

社会で失敗した時の解決策は、成功のためにもっと努力することではありません。むしろ最良の解決策は、イエス様から必要なものを受け取ることです。私の場合で言うなら、人からの称賛を求める生き方ではなくて、父なる神から栄誉を受け取ることを選び、その神を賛美していく生き方です。

この世は競争社会です。競争では少ない勝者のために賞があります。でも神が一人の人間に栄誉を与えても、他の人間も神から栄誉を受け取ることができます。私たちが神によって受け入れられる経験をすると、独り占めしようと競争したり、他の人より優位に立とうとするのではなく、この栄誉なる場所を他の人とシェアしたくなるのです。

結び

今日の話をまとめます。栄誉と恥の概念は聖書に出てきます。聖書のメッセージは、厳しい競争社会で生きる私たちの人生にとても深い繋がりがあると思います。栄誉と恥という概念から今日の箇所を読む時に、私たちはイエスと福音がいかに美しく素晴らしいか、見ることができたのではないでしょうか。

これから言う質問を通して、神と対話してみてください。

  • あなたは人生のどんな場面で恥ずかしいと感じますか。または自分は不十分だと感じますか。もし社会があなたを評価するとしたら、その評価はどのようなものでしょうか。
  • イエス様はあなたのことを何とおっしゃるでしょうか。自分の不十分なところについて、イエス様は何とおっしゃると思いますか。
  • 神の誉れと恵みがあなたの上にあることを知って心に平安が来ますか。あなたは多くの時間を使って、他の人から称賛を得ようとしていますか。

神が私たちに与えてくださる栄誉は永遠的なものです。それはこの世を超えて続く栄誉です。最後に詩編31篇から引用してお祈りします。

(祈り)

主よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。あなたの義によって、私を助け出してください。

私に耳を傾け、早く私を救い出してください。私の力の岩となり、強いとりでとなって、私を救ってください。

あなたこそ、私の巌、私のとりでです。あなたの御名のゆえに、私を導き、私を伴ってください。

私をねらってひそかに張られた網から、私を引き出してください。あなたは私の力ですから。

私の霊を御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました。(詩編31:1-5)

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