「主の救いを黙って待つのは良い。」(哀歌3章26節)

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今日は哀歌3章25、26節の言葉を取り上げます。そこには、「主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。主の救いを黙って待つのは良い。」とあります。

まず哀歌の内容について簡単に触れてみます。これはエルサレムの滅亡を嘆いたエレミヤの悲しみの歌です。エレミヤは最も涙を流した預言者の1人です。参照エレミヤ9:1。神の都である愛するエルサレムが滅ぼされる、その姿を目の当たりにしてどんなに失望や落胆に陥ったのかと想像できます。エレミヤは、エルサレムの荒廃した姿を目撃し、心が張り裂けんばかりの深い悲しみを持ってこの詩を歌ったと理解できます。それも、へブル語アルファベット順にそった言葉を用いた、実に技巧にとんだ詩文体になっています。

今までエレミヤ書を学んできました。そこには次のような内容が書かれています。まずエルサレムが滅ぼされるということ、それは神の裁きの一面であること。ユダの民はバビロンに捕囚とされること、それが神の御心であること。そして彼らはバビロンで神の民として整えられて、約70年後にもう一度エルサレムに戻って来ること。その時、新しい契約の希望が与えられて、救い主を待ち望む民として新たなスタートをすること。歴史を支配している神はバビロンをも裁かれること。これらの内容が書かれていました。

哀歌3章で、作者は今自分たちがこのような苦難と悩みの中にいるのは、神の怒りを受けたためであると、まず告白しています。続いて、私たちが完全に滅ぼされなかったのは、ただただ神のあわれみと恵みのゆえである。そして後半では神のもとに帰らせてください。敵に報復してくださいとの祈りを捧げる内容となっています。それでは3章の内容を少し掘り下げて見てみましょう。

1節から21節まで、エルサレムの厳しい現状が描かれています。1節で、「私は主の激しい怒りのむちを受けて悩みに会った者。」とあります。私と言う表現で、エルサレムの町の代弁者としてその現状を表現しています。人々は青銅の足かせにつながれているのです(7節)。人々は助けを求めて祈りを捧げるのですが、誰も助けてくれない、そのような状況に置かれています(8節)。人々は矢の的のようにされ、攻撃を受けています(13節)。人々は物笑いとなり、あざけられています(14節)。人々は平安を奪われ、幸せを忘れてしまっています(17節)。人々のたましいは沈んでしまっています(20節)。そのようにエルサレムの危機的状況が描かれています。

しかし、22節から24節まで神の恵みに目を注いでいます。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」と22節にあります。神は決して約束を破るお方ではありません。神の約束は変わらないごとに気づき、自分たちは主の恵みによって生かされている者であるとの事実に目を向けます。そして、「主の恵みは朝ごとに新しい。主こそ、私の受ける分です。」と目を神に向けています。

今日のテーマである主を待ち望む。黙って待つ。ひとり黙ってすわっているがよい、とのみ言葉が、25節から28節に書かれています。ゆっくりと読んでみましょう。エレミヤは、今はただ涙を流すことしかできなくても、神のあわれみは永久までとの信仰の告白をして、主を待ち望んでいます。それには信仰の決断が問われます。皆さんはどうでしょうか。クリスチャンの成長とは何でしょうか。神のみ言葉を信じて、状況に左右されないで、黙って神の時を待つ。これこそ成長したクリスチャンの姿ではないでしょうか。最近一時的な祝福や繁栄を求めるクリスチャンが増えたように思います。確かに結果的に神は信仰者を大いに祝福されます。しかし繁栄や富の祝福が信仰の目的になってしまったら、どこかおかしくなってしまいます。苦難を通して信仰者を成長させようとする神のご計画を忘れてしまっています。詩篇93篇12節には、「主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。」とあるのです。エレミヤは29節で、「口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。」と語っています。口をちりにつけるとは、顔を土に着ける姿を表し、絶対的な服従を表す姿です。ちょうど人々が王の前にひれ伏すようにです。絶対的な神への服従です。神がなされることならば、それが何であれ、私は受け入れます。なぜなら神のご計画は完全だからです、との思いがこの中には隠されています。

そしてさらに30節には、「自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。」とあります。これこそキリストの十字架の姿です。私たちの救い主は私たちを愛して、ムチ打たれ、そしりを受け、十字架に着けられたのです。ここには十字架の姿が預言されています。しかし、キリストは蘇られました。死は彼を支配することができないからです。ちょうど31節に、「主は、いつまでも見放してはおられない。」とあります。そうです、黙って静かに神を見上げ、神の導きを求める、そのような信仰者に、神は確かにお答えになるのです。ユダの民の現状は、自分自身の罪のために、神の裁きを受けている、今はそうかもしれません。彼らは黙って神の時を待つ必要があるのです。38節には、「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか。」とあります。神を信頼して、わざわいをも神から受ける覚悟を持つのです。皆さん、私たちの苦しみを神はご存知です。バビロンのように高慢になった者を、神はいつか裁かれます。主は私たちの歩みを見ておられます。そのような思いが、33から36節に書かれています。神は理由もなく、人々を苦しめ悩まそうとは思っておられない。決して地上の苦しみは、それだけでは終わらない。そのような信仰をエレミヤは持っているのです。

皆さんはどうでしょうか。苦しみの中で神を求めることをなさっているでしょうか。時には、黙って、座って、口をちりにつけて、イエスに祈りを捧げて行こうではないですか。私はこの哀歌を読みながらエレミヤと一緒に涙を流します。しかし希望を持って涙を流します。神を信頼して涙を流すのです。必ず私の人生を導いてくださる。今の悲しい出来事も神は必ず益に変えてくださる。そのような信仰を持って生きるクリスチャンでありたいと願います。ローマ8章28節のみ言葉をお読みします。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。もう一度、いや何度でも、25節から33節を静かに読んで、神の語りかけを得てみようではありませんか。

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