「あなたのみもとに帰らせてください」哀歌5章21節

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前回は、「主の救いを黙って待つのは良い。」とのテーマから話しました。さまざまな出来事に、神が定めた時があります。私たちは時には、黙って神が働かれる時を待つ、そのような信仰のチャレンジを受けます。来週はイースターになりますので、今週はイエスの十字架での苦しみは覚える一週としたいと思います。今回の聖書の箇所としては、哀歌5章21節を選びました。そこには、「主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください。」とあります。イエスの十字架の業を覚えながら、あなたのみもとに帰らせてくださいとの祈りを共に捧げたいと願っています。

前回、哀歌の内容について簡単に触れました。これはエルサレムの滅亡を嘆いたエレミヤの悲しみの歌です。エレミヤは、エルサレムの荒廃した姿を目撃し、心が張り裂けんばかりの深い悲しみを持ってこの詩を歌ったのです。それも、へブル語アルファベット順にそった言葉を用いた、実に技巧にとんだ詩文体を用いて。哀歌は悲しみの歌ですが、しかし罪を悔い改め、神に立ち返ることを求めた歌でもあります。あなたのみもとに帰らせてくださいとの祈りで哀歌が終えていることからも、その事が言えると思います。第二コリント7章10節には、「神の御心に添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」と書かれています。私たちもこの哀歌を読みながら、過去を振り返り、謙遜になって罪を悔い改め、神の恵みを見いだす者でありたいと願います。

さらに、この哀歌は神への祈りの書です。ユダヤ人は、今日でもユダヤ暦のアブの月(現在の7月か8月)に、神殿の滅亡を悲しみ、断食をしてこの書を朗読するようです。彼らは今でも一年に一度、哀歌を読みながら祈りを捧げているのです。この哀歌を通してユダヤ人が自分の内側を見つめ、悔い改めの人生を生き、他の民族へ寛容である民となるように、私たちも祈りたいと思います。

私たちクリスチャンは、神殿の崩壊を嘆く民ではありません。私たちは、私たちの国籍は天にあると信じる者たちです。ピリピ3章20節には、「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」と書かれているからです。しかし私たちは地上に生きています。地上に生きる私たちは様々な困難や苦難、また迫害を経験するのです。そのような時にこの哀歌の祈りが、私たちの祈りになるのではないでしょうか。

哀歌5章に入る前に、試練について簡単に考えてみましょう。まず、第一コリント10章13節の言葉を読んでみます。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるような事はなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」と書かれています。神は脱出の道をも確かに備えてくださっています。このみ言葉を堅く信じてまいりましょう。

次に試練の目的について考えてみます。ヤコブの手紙1章2節から4節までに、「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」と書かれています。試練には目的があります。神は私たちを成長させるために、試練を許されるのです。ここには忍耐が生じる。成長を遂げるとの言葉が確かにあります。私たち信仰者の成長、それが試練の目的です。ですから一歩進んで試練を喜ぶ、そのような信仰の目を持ちたいものです。さらに、ペテロの手紙第一1章7節には、「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」とあります。精錬との言葉は、私たちを清める働きを持っています。試練は、私たちの人生に清めをもたらすだけではなく、その結果神からの栄誉をもたらすのです。

それでは、5章を見てみます。前半はバビロンによって滅ぼされるユダの姿が描かれています。そして捕囚とされ、今まで当たり前であったことができなくなる。そのような中でユダヤの民は自分の心を見つめる時を持つのです。そして19節からはユダヤの民が神に向かい心からの祈りを捧げています。

哀歌5章1節には、「主よ、私たちに起こったことを思い出してください。私たちのそしりに目を留めてください。顧みてください。」と祈っています。私たちに起こったこととは、神様がバビロンを用いてユダ国を滅ぼされたことです。その結果、2節には、自分達の相続地は他国の人の手に渡ってしまった。3節には、自分達は父親のないみなしごとなった。4節には、水も薪も代価を払って買わなければならなくなってしまった。5節には、くびきを負って、追い立てられ、疲れ果てて、休むことができないとあります。そしてそのような苦しい状況が祈りの中で告白され、それは私たちが罪を犯したからですと、その理由が16節に書かれています。自らの過ちを認め、その苦しい現状を覚えながら、一つ一つ神の前に祈っています。この祈りは毎年ユダヤ人によって読まれているのです。それは神の大きなご計画であると私は思います。聖なる国民、祭司の王国となるために、ユダヤの民は自らの過ちを認め、悔い改めの祈りを捧げる、それこそ神のご計画であると思います。私たちも同様です。苦しみは一つ一つ神の前に打ち明けてまいりましょう。神は真実な祈りに耳を傾けてくださっています。

5章19節からエレミヤは目を神に向けて祈り始めています。「しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御座は代々に続きます。」とあります。神の御座はとこしえに続きます。私たちの悔い改めの祈りを聞いてくださるキリストが、神の御座に着いておられます。20節で、「なぜ、いつまでも、私たちを忘れておられるのですか。私たちを長い間、捨てられるのですか。」と祈ります。捕囚のままでいることの苦しみがこの祈りの背景にあります。しかし21節で、「主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください。」と祈ります。神のもとに帰りたい。心も体も魂も神のもとに帰りたい、そのような熱い祈りを捧げています。昔のようにとは、ダビデやソロモン王の治世のように豊かな繁栄を送った日々のことです。その繁栄や平和の日々をまず求めています。しかし新しくとは、過去にとらわれない繁栄や平和、また自由がそこにはあるのです。私たちクリスチャンは、キリストにある平和や自由をいただいて神との親しい交わりの中に生かされている者です。キリストとの新しい関係に常に戻りたいとの祈りは、現代に生きる私たちの日々の祈りであると思います。

来週はイースターです。その前に、キリストが十字架に着かれたその苦しみがあることを忘れてはいけません。キリストは私たちを愛し、私たちの罪を背負って神の刑罰を受けてくださったのです。黙って人類の罪を背負われたのです。罪の刑罰を受けてくださったのです。今週十字架でのキリストの苦しみを覚えていきたいと願います。私たちは今、キリストを信じる故に救われています。もう一度罪を赦されている恵みに感謝しながら、「主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。」との祈りを共にささげてまいりましょう。たとえ口は閉じていても、希望を持って神を見上げてまいりましょう。
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