ダビデの祈りから学ぶ3つのレッスン-詩編143篇

 IBFの皆さん、おはようございます。
おおかたの皆さんがそうだと思いますが、新型コロナウィルスのために私たち家族もここ2か月間、家にこもっています。私は宣教師という仕事柄、いつも人と会っていました。ですから新型コロナウィルスで、たえまなく人に会うことからしばらく解放されて、ゆっくり休める機会を最初はありがたく感じていました。でも数週間過ぎ、引きこもり生活の新鮮な気持ちは薄れ、人と会わないと全く気分転換できないのだなと気付きました。友だちに直接会って話したい、外食したい、行きづまって逃げ場のないような気分になりました。

このようなとき、詩編143編が私の心に浮かんできました。聖書学者の中には、この詩が書かれたのは、おそらくダビデがサウル王から逃げ、ほら穴に身を隠していた時だろうと言っている学者もいます。ある意味でダビデも、緊急事態宣言が出ている今のような状況にあったということです。ほら穴から出れば身の危険が及び、かといってほら穴にずっと潜んでいると息がつまります。今のような状況、そして人生の試練において、皆さんもダビデと同じような気持ちになるのではないでしょうか。

この困難の中で、皆さんの祈り、皆さんの神との語らいが更に促されることを願って、詩編143編から3点お話したいと思います。

[詩編143編を読みましょう。]

このダビデの祈りから三つのレッスンを学びましょう。
1) 神に正直な気持ちを伝えても大丈夫。
2) 神が以前よくしてくださったことを思い出す。
3) 祈りは、神がどのようなお方か考えるためのよい時である。

1) 神に正直な気持ちを伝えても大丈夫

一つ目のレッスンは、自分の落ち込んでいる気持ちを神に正直に伝えても大丈夫だということです。詩編でダビデは、彼の本当の気持ちをためらうことなく神に伝えています。ダビデは、敵に囲まれ、恐れ、気分は落ち込み、希望を失っていました。4節「それゆえ、私の霊は私のうちで衰え果て、私の心は私のうちでこわばりました。」 7節「主よ。早く私に答えてください。私の霊は滅びてしまいます。どうか、御顔を私に隠さないでください。私が穴に下る者と等しくならないため。」とあります。
皆さんは自分の気持ちをさらけ出して、ありのままの自分で神のみもとに行っていますか。十分によい信徒でなければ、神に近づけないと思っていませんか。正直な気持ちを神に言うべきではない、と思っていませんか。
私たちが不十分でも 神のみもとに行ってもよいのだ、とダビデの祈りは私たちに教えてくれます。

サウル王が私たちに迫ってくることはありませんが、コビット19(新型コロナウィルス)という見えない敵が、私たちの予定や仕事、家族に大打撃を与えています。この心の苦しみ、フラストレーション、恐れ、怒りを神に正直に打ち明ける時に、神は私たちの心に平安を与えて下さるでしょう。

2) 神が以前よくしてくださったことを思い出す

二つ目のレッスンは、神が以前よくしてくださったことを思い出す、です。ダビデは、自分のみじめな気持ちを正直に認めるだけに終わらないで、もう一歩進み、神が彼によくして下さったことを思い返します。それがどんなに前のことでもです。5節でダビデは言っています。「私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています。」
辛い状況で打ちひしがれる時、神があなたによくして下さったことを、どんなに前のことでも、時間を取って思い返していますか。聖書、特に嘆きの詩編と呼ばれるものは、神のよくして下さったことを思い返すことが大切だと教えています。神がどう助けて下さったか、それは一人一人違うでしょう。

私の場合ですと、新型コロナウィルスでステイホームなり、教えている英会話の生徒さんたちが皆お休みしてしまうのでは、と心配していた時に、神が助けて下さいました。実は、生徒さんたちは最初オンラインレッスンに消極的でしたが、急にそれが変わったのです。結局、3分の2の生徒さんがオンラインレッスンを受けてくれることになりました。収入減となったのは事実で、伝道支援者からの経済的な支援に引き続き頼ってはいますけれども。

日本での4年半の間に、神が私たち夫婦にどのように与えて下さったかを振り返ると、神はこれからも私たちを守って下さると信じることができます。また、神のよくして下さったことを思い返すと、もし神が私たち夫婦にマレーシアに戻りなさいとおっしゃるなら、たとえ心の準備ができていなくても、満ち足りた気持ちで受け入れることができると思います。神が今までよくして下さったことを思い返すことによって、これからも神に信頼して歩むことが、より簡単にできるのではないでしょうか。

3)祈りは、神がどのようなお方かを考えるためのよい時である

ダビデの祈りから学ぶ三つ目のレッスンは、祈りは神がどのようなお方かを考えるためのよい時である、です。神がどのようなお方かを考える時に、神が以前よくして下さったことを単に思い起こすだけでは足りません。神のご性質、神の望み、ご計画、神はどなたか、について考えることがとても大切です。ダビデの祈りの中には、神のご性質にふれている箇所がよくあると思います。例えば、神の誠実さ、義、変わらぬ愛がうたわれています。そしてダビデは、神に対する自分の位置づけを考えます。ダビデは神のしもべであり、神のみ心に従って歩む者、神から教えられる者として自分を位置付けています。

私の祈りとダビデの祈りの何と違うことでしょうか。私の祈りは、時にまるで買い物リストのようです。「神様、これをして下さい。あれをして下さい。それから、このこととあのことを助けて下さい。」そして祈りが応(こた)えられると、その項目に印をつけて、「神様、このこととあのことをありがとうございました。」こんな関係が私と神との関係の全てであったら、と想像してみて下さい。

祈りは関係性のある会話でなければなりません。愛する人と話す時、ただ要求するとか、ありがとうと言うだけではありませんね。もっと何か話すのではないでしょうか。例えば、愛する人について何かに気付きます。そして「あぁ、あなたはこういう食べ物は好きではないのですね。」とか、「あなたはとっても面白いですね」とか。誰かの性質をじっくり考えていく時、相手に対する感謝は深まり、相手に対する接し方もよいものになっていくのではないでしょうか。

また、それは愛する人に気持ちを向けることでもあります。私は、食事を時々一緒にする、昔からの友人がいるのですが、実はできるだけ避けています。それは彼がいつも自分のことしかしゃべらないからです。彼が私に質問しても、何故か結局彼の話で終わってしまいます。彼の食事相手は結局誰でもいいのかなという気がします。もし私たちが神に対して彼のような態度をとっていたらどうでしょうか。私たちは本当に神に心を向けていますか。祈りは自分の願い事ばかりになっていませんか。

自分のことだけをお願いする自己中心的な祈りは、信仰生活をとても狭いものにしています。このような祈りをしていると、神が思った通りに応えてくれなければ、もう祈りなど止めてしまおうということになりかねません。神のみ心、神の望みは、私たちの思いとは異なることがあるのです。しかし、神のみ心や神のご計画、神のご性質についてよく考えてから祈ると、私たちは信仰者として、視野が広がり、神との関係をしっかり築くことができます。

新型コロナウィルスのことで、皆さんはどのように祈っていますか。「神様、どうかこのウィルスを早く取り去って下さい!どうか早く日常生活に戻らせて下さい!」 これを下さい、あれをお願いします、というような祈りが悪いとは言いません。しかし、私たちは次のような祈りもできるのではないですか。「神よ、あなたが命じる大事な戒めは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』です。私は今週どのようにそれを実行できるでしょうか。」「神よ、収入が減る中で、どのように家族を養えばよいでしょうか。あなたのご計画にどんな意味があるのかわかりません。でもローマ8章28節では、神は神を愛する者のために全てを働かせて益として下さると書かれています。また、マタイ6章では、神は私の必要を全てご存知であることを信じなさいと、そして神のみ国を第一に求めなさいと命じておられます。」

忙しくてなかなか神に心を向けることができない、と私たちはよく言います。祈りは、神がどなたなのかを深く考えるためのよい時間だと思います。神はどなたなのか、どうやって私たちは知ることができるでしょうか。まず、イエスがご自身について何を明らかにしたかを考えるとよいと思います。なぜなら、イエスご自身が神の完全な啓示だからです。
よみがえりのイエスに出会った使徒パウロは、ピリピ4章でこう言っています。「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:12-13)
主イエスは、今のように新型コロナウィルスで困難な状況でも、どんな時でも私たちに生きていく力を与えてくれます。
最後に、インド伝道の働きをしたアイルランド人の宣教師エミー・カーマイケルのことをお話したいと思います。彼女は64歳で重い病気にかかり、亡くなるまで寝たきりになってしまいました。一人の友人が送ったヨハネの黙示録2章9-10節が、エミーにとって慰めとなりました。その聖句は、迫害されている教会にイエスが送る言葉で、「わたしはあなたの苦しみと貧しさを知っている」で始まり、「恐れてはいけない」とも書かれています。エミーは「わたしは知っている。恐れてはいけない」を記した飾り額を作りました。彼女はそれをベッドの脇に置き、心が弱り果ててしまうと、いつもそれを見て、力づけられたそうです。後にエミーは、この言葉が彼女にどういう意味を持っていたかを詩で表しています。

「わたしは知っている」 
測りしれない慰めをもたらす そのみ言葉よ
何故 それは 私の思いを超えた深淵を持っているのか
私はただ、それを知っているだけ
「恐れてはいけない」
そのみ言葉には何でも与えることのできる力がある
疲れ果てた心も
ベッド脇の そのみ言葉に気付くなら
慰めを受けるだろう
 
愛する主よ
感謝を捧げ 崇めます
あなたは共におられます
(エミー・カ―マイケル)

厳しい現状に直面する時も、エミーのように希望と喜びを持って、神の恵みを経験できますように。正直な気持ちで神と語らうことで、神から平安をいただけますように。神がよくして下さったことを思い返し、神の導きと守りへの確信が与えられますように。神のご性質を深く考えることで、信仰者としての考え方、そして神との関係を深めることができますように。祈りましょう。