>>IBF

ゴスペル・フラダンス・ミニストリー in IBF

    インストラクター デビ・ルツコウスキー(Debbie Rutkowski)
神に仕える者(ミニスター)としてのダンスの意味

 ゴスペル・フラダンスが神様から離れれば、それはただのダンスにしか過ぎません。けれでおも、あがなわれた、神を信じる者の手でなされた時、それは、積極的な礼拝と言えるでしょう。ですから、私たちの生活を神様に聖別して捧げてまいりましょう。愛の現れとして、神に自らを明け渡し、きよめられてまいりましょう。祈りと賛美と礼拝は、私たちを神の臨在へと導いてくれます。

 私たちは自らを、賛美する者、神に仕える者として整える必要があります。私たちは自らの手を、また、心を清く、純粋にする必要があります。私たちはきれいにされ、きよめられていかなければならないと思うのです。
「心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信にみたされつつ、みまえに近づこうではないか。」
  (ヘブル10:22)

 神様は私たち一人一人を目的を持って召していらっしゃいます。神様は私たちを選ばれました。私たちが神様を選んだのではありません。それは、自分たちの奉仕、それ自体のためではないのです。そうではなく、神様のみ国全体の目的の一端、一部としてなのです。踊る踊り手として仕えるということによって、あなたも他の人への神様の贈り物となるのです。神様は、神様が選ばれたお一人一人に必要な賜物と能力を備えていらっしゃいます。私たちはキリストにあって必要なものをみんな持っているのです。

 私たちのゴスペル・フラダンス・ミニストリーは、神様のための奉仕としてなされる以前に、神様への捧げものとしてあることが第一なのです。もし、私たちがきよい、明け渡された神の器ではないとするなら、歌うことも、踊ることも、メッセージすることも、あるいは、その油注がれた神の宮で教えることも不可能と言えるでしょう。最も崇高は奉仕はまずキリストへ捧げられたものなのです。

 そして、次に、イエス様がその臨在と油注ぎを私たちに現されるのです。その後、キリストの栄光と祝福がその民にすべての者に流れていくのです。地上に神の国があらわされるのは、忠実に神に仕える人々にかかっているのです。
「だから、わたしたちはイエスによって、賛美のいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。」
  (ヘブル13:15)