クリスチャンの一致 ―新型コロナウイルスの状況下で―

 ↓メッセージが聞けます

聖書箇所:詩篇133篇

主にある兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。今朝も皆さんのお顔を拝見できて嬉しいです。マスクで顔の半分が隠れてしまっていますが。
さて、こうして集まって礼拝を再開していますが、以前と同じようにとはいきません。新型コロナウイルス対策をしながら、どのように教会を保っていくか、牧師、役員、教会員関係なく、教会全体で考えていかなくてはなりません。
新型コロナウイルスについて話し合うと、いろいろな意見、考えがあることに気付かされます。例えば、今日の礼拝を問題なく快適に過ごしている方もあれば、中にはそうではない方もいるかもしれません。意見や感じ方の違いによって、「過剰な反応だ」とか、「気にしなさすぎでしょ」などとお互いを批判し合う状況に陥りやすいと思います。

ですから、今日は「クリスチャンの一致」をテーマにメッセージしたいと思います。新型コロナウイルスであろうと他の事であろうと、意見の違いがある中で、相手に敬意を払いつつ、キリストの体である教会の一致を保つにはどうしたらよいでしょうか。

では詩篇133篇を読みましょう。この詩篇には、神の民の一致がとても尊いものだと書かれています。後で、教会の一致のために私たちができる三つのことをお話します。

(詩篇133篇を読む)

詩篇133篇における神の民の一致
すぐにこの詩篇がとてもユダヤ的な詩だとわかります。ユダヤ人にとって大切な慣習や場所が出てくるからです。1節には、一致は素晴らしいことだとストレートに書かれ、2節、3節には一致を象徴するものが出てきます。

2節の一致を象徴するものは油で、「それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れて… 」とあります。当時、アロンが属していたレビ族は、国全体の聖職者の務めを任されていました。そしてイスラエルの全部族は、エルサレムの神殿で礼拝を捧げていました。このユダヤ人の大切な慣習がイスラエルの12部族を一つにしていたのです。アロンのような聖職者は、礼拝において神の民をまとめる役割を担っていました。礼拝で聖職者は、悲しみの象徴、許しを請う象徴として、神に動物を捧げる儀式を執り行っていました。

油が意味しているもの、それはまず、アロンに対する神の祝福、任命、神と人間との和解の働きです。また、香りのついた香油は、当時、気分をリフレッシュさせるために、頭につけるなどして使われていました。ですから、神の民の一致は、神の祝福、神からの召し、英気づけるもの、喜びであると、詩篇133篇は言っているのです。

3節には一致を象徴するものがもう一つ出てきます。「それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている」とあります。ヘルモン山は、イスラエル北部で一番高い山で、水分を非常に多く保有しています。一方、シオンの山は乾燥している土地にあります。ですから、この箇所は、一致というものが、乾燥している土地に水の祝福が溢れるようなことだと言っているのです。

詩篇133篇の最後の行は少し唐突な感じを受けますが、シオンの山から永遠の命がもたらされるという内容が書かれています。これはどういう意味でしょうか。

シオンの山は、イスラエルの全部族が礼拝を捧げる神殿のあるエルサレムにあります。ヘブル人への手紙には、イエスが詩篇133篇の最後の行をどのように成就したかが書かれています。イエスは、捕えられ、はりつけにされる直前にエルサレムに入りました。イエスは自分の身に起こることを知っていました。しかし、イエスは目的を持って死へと進まれました。それはイエスの使命であったからです。十字架の上で死なれることで、イエスは大祭司としての役割を担ってくださったのです。人間の罪をあがなうために、ご自分の体を神に捧げてくださいました。許しと永遠の命は、イエスの死を通してエルサレムから来るのです。

イエスの死が、神と人間に和解をもたらしました。ユダヤ人のためだけではなく、全ての民と国々のために。イエスが成してくださったことを信じる者は、信仰によって一致しています。そして、イエスの死は、神と人間の間だけではなく、人間同士の間にも和解をもたらすのです。
十字架に架かる少し前に、イエスは長い祈りを捧げました。ヨハネ17章20~23節を読みましょう。
「17:20わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。 17:21それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。 17:22またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。 17:23わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」

兄弟姉妹である皆さん、主にある一致を喜びつつ求めていきましょう。クリスチャンとしてのビジョンを共有することは素晴らしく、気持ちを新たにしてくれます。そして、主ご自身が私たちに一致を求めておられます。

では、教会としての一致を強めるにはどうしたらよいでしょうか。最近、あるクリスチャンのウェブサイト(the Gospel Coalition Website)で読んだ記事に、新型コロナウイルスの状況下で、いかに教会が一致を保っていくかについて提言されており、参考になりました。新型コロナウイルスだけではなく、他の場合でもとても参考になると思ったので紹介します。その記事によると、教会の一致を保つために、私たちが実行すべきことが3つあります。
1) 相手を裁く態度を取らない
2) 謙遜な心を持つ
3) 寛容な心を持つ

1) 相手を裁く態度を取らない
まず、相手を裁くような態度を取らないことです。教会の一致を保つために、違う考えのクリスチャンを裁く態度を取らないように気を付けましょう。パウロはローマ人への手紙14章で、クリスチャンが持つべき信仰の中心から外れる様々な問題、グレーゾーンにある諸問題において、クリスチャン同志の考えが相違した場合にどう対処すべきか書いています。ローマ人への手紙14章13節には「ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。」とあります。

例えば、新型コロナウイルスのために、教会に来るのが少し怖いという人に向かって、過剰すぎる反応だとか、ただ教会に来るのがおっくうなのではとか、信仰が足りないなどと言って、裁くような態度をとったらどうでしょうか。また反対に、ステイホームで教会に来ない人が、教会に行く人に向かって、ウイルスへの用心が足りない、などと批判するのはどうでしょうか。キリストに従う者として、私たちは、温和で恵み深く、相手に敬意を払う人間となるよう求められています。

2)謙遜な心を持つ
二番目に必要なものは謙遜な心です。自分より相手を思いやる謙遜な心は、教会の一致を促します。パウロはピリピ人への手紙2章3節で「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」と書いています。あなたは、必要ならばあなたが快適に感じているもの、こうあってほしいと思うものを手放し、相手のために行動しているでしょうか。
例えば、大きな声で高らかに神を賛美したいと思う方は多いでしょう。それは素晴らしいことです。しかし、この時期、大きな声で賛美することは最善の行動でしょうか。目に見えない飛沫感染に不安を覚える人が、近くにすわっているかもしれないという配慮は大切ではないでしょうか。

また、謙遜は、自分が間違っているかもしれないと認めることでもあります。私たちは自分の考えが絶対正しいと思うとき、理解してくれない人に腹を立てたり、それを態度に出してしまうことがあります。新型コロナウイルスについてはまだわからないことが多く、完全に正しい知識を持っている人は誰もいないことを忘れてはいけません。そして、たとえあなたが正しかったとしても、相手を見下すような態度を取ってよいことにはなりません。

3)寛容な心を持つ
愛ある一致のために必要な第三のものは、寛容な心です。教会のリーダーたちに対して寛容な心を持ちましょう。何故なら、彼らは多分ストレスを抱えながら、この難しい状況に対処してくれているからです。教会のリーダーたちは、解決が容易ではない、今まで経験したこともない困難に直面しながら対処してくれています。未だかつて誰も新型コロナウイルスを経験した人はいません。ですから、新型コロナウイルスと共存する新しい生活様式に、私たちの考えや習慣を適応させていく中で、私たちはお互い寛容な心を持っていきたいと思います。
また、今、採られている感染対策を我慢強く行っていきましょう。以前の日常に戻るにはかなり時間がかかるかもしれません。全く同じ状態には戻れないかもしれません。

マスクをつけたままの賛美は快適とはいえませんね。礼拝後にゆっくりと皆さんとお話できないのも寂しいです。しかし、私たちの人生を大きな視点で見たときに、新型コロナウイルスと付き合う時間、更には地上での私たちの人生は、永遠に続くものではないことを思い出しましょう。神、そして神の民と共に過ごす素晴らしい永遠に比べれば、わずかな時間なのです。

たとえ人生でどんなことが起こっても、イエスに信頼するクリスチャンは、イエスと共に生きる未来への確信があります。私たちは、いつか神がこの世界を一新して、天と地が出合い、喜び、癒し、完全な一致がもたらされることを目撃するのです。

結び
イエスの福音は、人種や国を超え、人々が一致するよう求めています。神が私たちを許してくださったように、お互いに憐れみ深い態度で接したいものです。キリストが私たちのためにご自身を犠牲にしてくださったように、お互いの必要に心を配りましょう。神が私たちに辛抱強く寛容でいてくださるように、私たちもお互い寛容な心を持っていきましょう。祈りましょう。