「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。」(イザヤ40:31)

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今回は、旧約聖書のイザヤ書から8回目のメッセージです。今回からはイザヤ書の第五部に入ります。それは、40‐55章にあたります。その内容としては、主のしもべであるイエスによる救いが主に預言されています。その前に歴史的記録の部分である第四部(36-39章)がありますが、その内容を簡単に触れてから今日のテーマに入りたいと思います。36章で、アッシリヤの王セナケリブのユダに対する暴言が書かれています。彼はユダの民に語ります。どのような国々の神々もアッシリヤの攻撃から救い出すことができなかった。だから主でさえもあなたがたを救い出すことができない、と。皆さん、地上の権力は一時的なものです。自分を神の立場に置く指導者はいつでも登場します。しかし、聖書のメッセージは明白です。地上の権力も神から与えられたもの。一時的に神によって許されたものです。権力を与えられた者は、謙遜な思いで神に仕え、民を愛して、民の福祉のために仕える者です。そのような謙遜な思いを持てなかったアッシリヤの王も神によって裁かれてまいります。その様子が37章36-38節に書かれています。同時にユダの王ヒゼキヤの祈りと神の答えがこの歴史的記録の中に書かれています。信仰者であったヒゼキヤも完全な者ではありません。39章では、バイロンの王から同盟関係を求められて、ヒゼキヤは自分の持てる物すべてを見せてしまいます(39:2)。人に頼ることを選んだわけです。イザヤはヒゼキヤに語ります。「あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主はお仰せられます。」(39:6)と。イザヤの預言のように、この時から約115年後にユダ王国のバビロン捕囚が起こってきます。これらのことから、私たち信仰者は人に助けを求めるのではなく、神に助けを求めることの大切さを教えられます。それは難しいことかもしれません。しかし、私は人ではなく、神に助けを求める、そのような信仰告白をする者でありたいと願っています。さて、今日は40章に入りますが、40章からは解放のメッセージが中心となります。それはバビロン捕囚からの解放とも理解できますし、キリストによる罪からの解放のメッセージととらえることもできると思います。それだけではなく、終末の時代に神が与えてくださる完全な解放の業としても理解できると思います。それでは、40章を読んでみてください。

40章1節には、「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる、とあります。慰めのメッセージが語られる新しい時代がきたのです。2節には、「エルサレムに優しく語りかけよ。・・その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」と書かれています。バビロン捕囚の体験がどんなに惨めで悲しいものであったとしても、解放の時が訪れるのです。その労苦は終わり、その咎は償われたとあります。このメッセージはユダヤの人たちだけに限りません。新しい都エルサレムに招かれている私たちクリスチャンへのメッセージでもあります。私たちの以前の人生がどんなに惨めなものであったとしても、労苦から解放され、咎は償われ、解放の時が訪れるのです。この慰めのメッセージはイエス・キリストによってもたらされて行きます。3節には、荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。・・大路を平らにせよ。」とあります。この言葉は、ちょうど新約聖書に出て来るバプテスマのヨハネを指し示す預言の言葉です。彼は荒野で叫んだのです。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:2)と。私たちも救い主を待ち望む姿勢を確立していきたいと思います。信仰によって、慰めのメッセージを受け取ることができるのです。

6-8節には、人間のはかなさを伝えるメッセージが書かれています。だからこそ、神の言葉を信じてより頼む必要があることを指摘しています。私たちの人生は草のようなもの。その栄光は、野の花のよう、しかし何時か、「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(8)と。このメッセージはバビロン捕囚を前にした民にとっては心に響くものであったのではと私は思います。同時に、人生のはかなさを知らなければ、福音の価値にも気づかない、そのように私たちに語りかけるメッセージでもあると思います。

9-11節は、慰めのメッセージの締めくくりの言葉が書かれています。私たち信仰者はこの慰めのメッセージを伝える必要があるのです。私たちは、力の限り語るのです。イエス・キリストは私の救い主、私の羊飼い、私をふところに抱く方と。(11)

12-26節は、神様はどのような方であるのかを読者に明らかにしようとしています。「だれ」と「どんな」(18)との言葉をもちいて、創造主なる神の存在を明らかにしようとしています。26節には、「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばわる。・・」とあります。参照詩篇147:4。創造された方は、私たち一人一人の名を読んでくださる方です。

27-31節は、信仰への招きの箇所です。27節にあるように、人は迷いやすい者です。私の正しい訴えなど聞いてはくれないと、心を閉ざすこともあります。しかし、私たちは28節からの招きに応答して生きるべきです。慰めをあたえようとされる神がおられるのです。罪の贖いを与えることができる方がおられるのです。この方は精力に満ち、その力は強いのです(26)。そして、全てを創造され、私たちを知っておられる方なのです。この方は疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつけることができる方なのです(29)。30-31節を読んでみます。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」とあります。ご一緒に、目を上げて、永遠の神、創造主を見上げようではありませんか。この方を待ち望んで力をいただき、鷲のように翼をかって上っていこうではありませんか。小さな世界に目をとらわれないで、大空から、神の視点をいただいて、世界を見てみようではありませんか。この信仰への招きに応答して行きたいと願っています。

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