ルカ福音書18章18節~27節「人にはできないことが、神には」

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① きょうの聖書箇所は、三つの福音書に並行記事があります。
それは、この出来事には、神さまからとても大事なメッセージが語られているということを意味しています。 

・そこで、きょうはその並行記事の内容を含みながら話をすすめてゆきたいと思います。

・この時、一人の人が、主イエスのところにやってきます。
マルコの福音書には「イエスのもとに、駆け寄り、ひざまずいて・・」と記されています。

・このことからもわかりますが、この人は、常識に富んでいて、礼儀を十分にわきまえている人でした。

・つまり、どこに出しても恥ずかしくない、どの世界に行っても人々から評価され、いつの間にか人々のリーダーになっている、そういう人物でした。

・おそらく彼は、十分な高等教育を受けていたと思われます。
そして、幾つものの外国語を操ることが出来、そのほか多くのスキルも持っていたと思われます。

・ルカはこの人のことを「指導者」と記しています。ある聖書はここを議員と訳しています。

・つまり彼は、単なる地方の一議員というのではなく、国全体を動かしている政府高官のような高い地位にあったようです。

・また彼は、若くして、既に、とても裕福でした。つまりこの人は、エリート中のエリートだったのです。

② この青年は、この時、主イエスにこう尋ねます。
「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか」

・ここで、この青年は、行いについて聞いています。良い行いとはどういうことであるのか、 聞いているのです。

・では、このように言う青年に、主イエスはどのように応えてゆかれたのかでしょうか・・
主は先ず、この青年が、最初に「良い先生」と呼びかけてきたことを取り上げます。
この言葉使いに、強い違和感を覚えられたからです。

・主イエスは、この青年が、今、良い行いについて知りたがっている、そのこと自体が、大きな勘違いであることを伝えるのでした。
そして主はこうおしゃいます。→「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか?」
・そしてこう付け加えます。「良い方は、神お一人のほか、だれもいません。」

・この青年の言葉使から・・彼の考え方が透けて見えます。
彼の考えはこうです。
「世の中には、良い行いと、悪い行いがある。イエスというこの先生は、高いレベルの良い行いについて、明確に教えてくれるに違いない。もし、高いレベルの良い行いについて教えてもらえれば・・後はそれを実行してゆけば永遠の命を受け継ぐことが
できるに違いない。 私には、それを実行してゆく自信がある。」

・どうやらこの青年は「人は、良い行いと悪い行いを判断できる。」という前提に立っているようです。 しかしどうでしょうか、皆さん。 私たち人間は、はたして、良い行い・・、普遍的に良い行いとは何かについて、わかる、そういう一人一人なのでしょうか・・

・どの時代でも、人は、「こういうことをすることは良い」と簡単に言います。
しかし、はたして、それは、本当に普遍的に良い行いであるのでしょうか・・
70年以上生きてきた私にとって、これは大いに疑問です・・。

・私の子供のころ、「プレイボーイであることは、男として良い事」こういうことを平気で言っていた大人が結構いました。

・私よりさらに先の時代に生きた、私の父はよくこんなことを言っていました。
「自分たちの子供のころは、他国に戦争を仕掛けて広げてゆくことはとても良いこと、そのためにいのちをささげることはさらに良い事」大人たちはそう言っていた。 
今のロシアの指導者とまるで同じです。

・今思うと、全然良い事ではありません。それは、人が、けしてやってはいけない悪事です。
このことに日本の国民全体が気が付いたのは、第二次世界大戦で大負けをした後でした。 

・このように、人が、その時代その時代に、「これがよい行い」そう思うこと・・これは実に危ういことです。

・主イエスは、良いというのは、神のもとにある・・つまり、時代を超えて、人の様々な思いを越えて、普遍的に良いというのは、神のもとにある。このことを先ず語られるのでした。

③ 次に、主イエスは、「戒めはあなたも知っているはずです。」と前置きされた後、この人に、旧約聖書にある「十戒」と言われている箇所の、その、最も分かり易い部分を取り上げます。
 
・それは、イスラエルの民なら誰でも知っている、小さな子どもでも答えることのできる、別にエリートでなくとも、高等教育を受けていなくとも、誰でも答えられる質問でした。

・「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽りの証言をしてはならない」「だまし取ってはならない」「あなたの父と母を敬え」

・もしかするとこの青年は、ムっとしたかもしれません・・。
「こんな簡単な質問を、このエリートの私にするのか・・」そう、思ったのかもしれません・・。
「こんな真面目で、パーフェクトな自分の様な人間にそんな基本的な事を言うのか・・」
そう思ったのかもしれません・・

・そこで彼は、主イエスが語り終えるか終わらないうちにこう答えます。
 「私は、少年のころからそれらすべてを守ってきました。」

・皆さんでしたら、このような場合、どのように答えてゆかれるでしょうか・・。
私でしたら、おそらくこの人と同じように、「そのようなことは、みな守っております。」などと偉そうに答えてしまいそうな気がします。

・皆さんも、この青年のように、「私は人を殺さない。盗まない。嘘をつかない。みだらなことはけしてしない。そのようなことは、小さな時からみな守っております。」 これに近い答えをなさってゆかれる可能性があるのではないでしょうか・・。

・確かに、ここにおられる皆さんは、汚れた行為に走ったことがあるはずもありません。
 そういうことを問いかけられるだけでも心外だと思います。

・しかし、旧約聖書のこの十戒というところは・・、実は、表面的な行いだけを問いかけている所ではありませんで・・ 十戎と言われているここは、その行いと、その行いを発生させてゆく、私たちの、内側の精神について問いかけているところなのです。

・主イエスに近づいていったこの人は、優等生ですから・・人を殺したり、ふしだらな事は、確かにしてこなかったでありましょう。 しかし、それは表面的ことだけでした。 

・ではこの青年の内側、心の中には、聖なる神さまの御心に反した、汚れた思い・・自己中心の思い、そういう精神は一切なかったのでしょうか・・。

・どうやら・・彼は、その、己の内側の現実、己の罪には気が付いていなかった様です・・

・そこで、主イエスはこの青年にこのよう語られます。 
22節 「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。」

・完璧であることに自信のあるエリートが、「あなたには一つ欠けていることがあります、」と言われるのはかなりのショックであったと思います。

・しかし、彼が、神の民に加えられ、永遠の命を受け継ぐ者になるために、どうしても、この欠けたことについて、理解できなければならなかったのです。

・マルコの福音書は、このときの主イエスの様子をについてこう記しました。
 「イエスは彼を見つめ・・いつくしんで言われた。」そうです。主は彼に「青年よ。わかってほしい・・そういう慈しみの思いにあふれつつ、彼にョックを与えたのでした。

④ では、この主イエスの言われている「一つ欠けているところ」とはいったい何を指しているのか・・ですが・・
 
・ここの文脈をゆっくり、また丁寧に読んで行きますと・・主イエスがおっしゃっていることが次第に見えてきます。

・そうです。主イエスの言われる「彼の一つ欠けている事」それは、単純に申しますと・・
「本当の自分が見えていない」ということでした。

・とても聡明で、いろいろなことが見えている青年であったのですが・・どうやら、彼は自分が欠けている一つのこと、それが何であるのかわからなかったようです。

・そこで主イエスは、彼がそのことに気が付くために、もう一度ショッキングな言葉を語ります。

・それは・・、これを聞けば、「ああ、私はそのような人物ではありません。私はそんなことのできる立派な者ではないのです。」と、己の内側の本当の自分が見えてくる・・、そのための決定的な内容でした。

・「帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従ってきなさい。」

・ここは、多くの人が誤解してしまうところかもしれません。
「主イエスは、とんでもなく高度な行いを要求している。信仰を得るためには、徹底した良き行いが絶対条件だ、そう言っている・・」こういう誤解です。

・実は、ここは、そういうことを語っているのではありません。
そうではありませんで・・ここで主は、あることを待っておられたのでした。

・その待っていることとは・・この人が静まって、自分の胸に手を置いて・・自分の内側を真正直から静かに見つめ直し・・そして、あることに気が付き・・このように告白することです。
 
「ああ・・・私は、そんなことが出来る人間ではありません・・」
 「ああ、私は、ずっと、ずっと・・財産をかき集めて来た人間なのです・・ そういうことしかできない・・極めて罪深く、小さな者なのです。そうです。これが私の本当の姿なのです。」 

・私は、優秀な人間なんかではありません。ただ人よりがんばって、むさぼってきた人間なのです。  ああ、イエスさま、このような私を哀れんでください!」
こういう彼の告白を・・主イエス・キリストは、期待し待っておられたのでした。

・しかし残念なことに、この青年は、そういう思いにはなりませんでした。
23節にはこう記されています。→「すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去っていった。」 

・教会に来て間もない頃、私は、この聖書個所を読むたびにこう思いました。
「悲劇的出来事だなあ・・」 しかし年を重ねてきたい今ではそのようには読んでいません。

・よくよく考えてみますと・・この聖書記事は、悲劇的出来事を伝えているのではなく・・
ラクダが針の穴を通るよりも救われる可能性の低い、限りなく0に近い、そういう一人の青年をも、イエスさまはけして見捨てることなく、主は神の民に招いてゆかれた・・そういう主の愛に満ちた感動的な出来事であったのです。

⑤ では、この青年は、この後、どうなっていったのでしょうか・・誰もが気になるところです・・、
しかし聖書はそのことを明確には記していません。

・この、「その後について、どうなったのかはっきりと書かれていない。」このことが、私はすばらしい・・実に聖書らしいと思います。

・しかし、きょうの箇所をよく見てゆきますと・・この青年がこの後どうなっていったのか・・
そのことを強く暗示させる、主イエスキリストの御言葉が残されています。

・それは25節と27節です。「金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが、針の穴を通るほうが易しいのです。」「それは人にはできない事です。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」

・この後、この青年が救われて、神の民に加えられていった、その可能性は0に近い・・しかし、神さまに不可能な事はなかった。 この青年もやはり、この神さまの偉大な救いの御業の恵みに与って(あずかって)いった・・私は、そう思うのです・・。

・そうです。たとえ、ラクダが針の穴を通るよりも不可能な人であっても・・神さまは、その一方的な恵みにより、まことのいのちを私たちにお与えになられる方なのです・・。
このことをきょう心に刻みたいと思います。

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