行ないのない信仰はむなしい。

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 今回は、「行ないのない信仰はむなしい。」(ヤコブ2:20)からのメッセージです。前回は「みことばを実行する人になりなさい。」(ヤコブ1:22)とのテーマでメッセージを語りました。特に、「聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」との聖書の言葉を取り上げて学びました。みことばを日々の生活に生かすことのできるチャレンジであったと思います。今日は、聖書のみことばが持つ力にも触れながら、行いのない信仰ってどんなものなのかと問いかけてみたいと思います。そして、信仰は行ないが伴ってこそ価値があるものであることに気づいて行きたいと願っています。ところで、私は毎月一回母親を車で施設に迎えに行き、病院に連れて行きます。施設で少しづつ弱っていく母に少しでも励ましを与えたいと心から願っています。そのような私の体験も皆さんに分かち合っていきたいと思います。それでは、ヤコブの手紙2章14-26節を読んでみてください。

ヤコブ1章25節では、完全な律法、すなわち自由の律法を見つめて離れない人は、事を実行する人になります、と書かれています。エレミヤ31章31-34節にあるように、聖霊によって自由の律法が私たちの心に与えられる新約聖書の時が来たのです。みことばが聖霊によって私たちのこころに与えられ、聖霊の導きでみことばへの応答ができるようになったのです。今日は、ペンテコステ礼拝ですので、使徒の働き2章から聖霊を受けた弟子たちや、みことばに応答して救われて行った人々の姿を見てみます。ペンテコステの日に聖霊が注がれます。弟子たちは御霊に満たされ、他国のことばで話し出します(使徒2:4)。いろいろな言葉で神の大きなみわざを語るのを聞いた人々は、何が起こったのかと驚き惑います(2:12)。そこで、ペテロがイエスの十字架での死と復活の御業を力強く語ります。37節では、人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロと他の使徒たちに、「私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った、とあります。みことばに応答した者たちが聖霊によって起こされ、教会が誕生していくことになります。彼らは、バプテスマを受け、使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。と42節に書かれています。私たちも同じではないでしょうか。みことばを通して聖霊が働き、信仰に導かれてきたのではないでしょうか。自由の律法である聖書の言葉は、事を実行する人とするのです。

整理してみます。聖書の言葉は、人を新生させます(ヤコブ1:18)。人間の欠点を示す鏡の働きをします(23)。また、私たち信仰者の生活の基準となり(25)、同時に私たちを裁く基準ともなります(2:12)。そのように考えて行くと、行いのない信仰ってあるのかなと思わされるのではないでしょうか。私たちは信仰を持って応答する時に、ある方は洗礼を受け、礼拝に出席し、奉仕に導かれ、また、伝道の業に携わって行くようになるのではないでしょうか。

2章14節に、「だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」と書かれています。何の役に立つのか、行いのない信仰は?そのような信仰がその人を救うことができるのか。15節、16節では、本当に困っている兄弟姉妹に、何も与えないで、言葉で励ましてもどのような助けになっているかと問いかけています。17節では、「それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」と語っています。20節からは、「ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。」と問いかけ、アブラハムの信仰を取り上げて、22節では、「彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ」、と説明しています。信仰と行ないは常に共に進むことをアブラハムの信仰から教えようとしています。そう、信仰と行ないは常に共に進むものです。そのような文脈から、24節では、「人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」と語っています。ここで、ヤコブは神学的な救いの定義を述べようとしているのではありません。14節で「そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」との問いを投げかけたので、行いのない信仰は、救いをもたらすものではないとの作者の思いを明らかにしようとしています。信仰だけによるのではない、信仰と行ないは共に働くものであり、行いを伴う信仰によって人は救われて行く、その思いをヤコブは表していると私は思っています。ヤコブの手紙は良い説教であると以前語りましたが、良い説教は聞き手に行動をうながします。行いのない信仰はむなしいもので死んだもの。本当の信仰は行ないと共に働くもの、救われた者は、口先だけの信仰者になるのではなく、良い行動をもって信仰をあかしする者となる、そのような思いがこの箇所から与えられるのではと思います。

さて、私は毎月一回の母親との病院通いを楽しみにしています。歩けなくなった母親を車イスから車に乗せ、車での会話を楽しみ、また車イスに移して病院で時間を一緒に過ごしています。決して簡単な作業ではありません。しかし、よく教会に来られている高齢者の信仰の証を分かち合います。母親はまだ信仰を持ってはいませんが、天国の希望を持って生きてほしいと心から願っています。私たちの信仰を伝える、本当に難しさを覚えます。しかし、神は生きておられ、私たち信仰者を用いて神の業を拡大してくださいます。祈り、励まし、愛の業、加えて生きた信仰を持って神に大きなことを信じる信仰者でありたいと願っています。

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