聖書箇所:Ⅱ列王記18章
今日は、イエスの先祖である南ユダ王国のヒゼキヤ王について語りたいと思う。ヒゼキヤ王はⅡ列王記において有名な王で、三章にわたって書かれ、Ⅱ歴代誌にも記されている。(悪名高い王を取り上げた後なので)ヒゼキヤ王がよい王と知り、明るい気分になる方もいるかもしれない。
ヒゼキヤ王は、B.C.700年頃に大きな危機に直面する。首都エルサレムがアッシリアに包囲されたときである。ヒゼキヤ王の門口にアッシリア軍が迫る。あなたの門口にいる敵は誰だろうか。その敵にどう立ち向かうのか。後で考えてみよう。
ヒゼキヤ王について(Ⅱ列王記18:1-8)
ヒゼキヤ王は、エルサレムの神殿でまことの神を礼拝することを復活させた。それは過去多くの王たちが軽んじてきたことである。更に詳しく知りたい方は、Ⅱ歴代誌29章~31章を読むとよい。ヒゼキヤ王は、宗教改革の他にも称賛された点がある。
5節は、ヒゼキヤを称賛する内容で、復唱したい箇所だ。
「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。」
9~12節では、ヒゼキヤ王時代の南ユダ周辺国での動乱が書かれている。アッシリア王シャルマヌエセルは北イスラエルを滅ぼし、多くのイスラエル人たちはアッシリアに捕囚された。この約二百年前に、イスラエル(12部族)は北イスラエルと南ユダ国に分裂していた。ヒゼキヤ王は南ユダ国の王である。北イスラエルの王たちの偶像礼拝ぶりは、どんどんひどくなっていった。彼らは、唯一まことの神を信じなかったのである。アッシリア捕囚は、唯一まことの神に従わなかった北イスラエルに対する神の裁きといえる。
神を信じていたヒゼキヤ王は、総じてよい王と言われている。しかし、神を信じるヒゼキヤの門口にも、アッシリア軍は迫ったのである。ヒゼキヤは正しい王だったが、危機は襲ってきたのだ。「ヒゼキヤ王の第14年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。」(Ⅱ列王記18:13)
ヒゼキヤはどう対抗したか。14節から16節にあるように、よい王とされるヒゼキヤでさえ、神への信頼がぐらついてしまう。ヒゼキヤは恐れ、アッシリアの脅威に屈した。彼は、アッシリアに譲歩し、講和のために金銀や、神殿の扉の金までも剥がしてアッシリア王に譲り渡した。
しかし、何としてもエルサレムに攻め入ろうとしていたアッシリア王は、満足しなかった。(Ⅱ列王記18:17-20)
アッシリア軍の将軍は自国の兵力が勝っていると誇る。(Ⅱ列王記18:23-24)
南ユダ国の高官たちはアッシリアの将軍の言葉に怖気づく。(Ⅱ列王記18:26-27)
エルサレムの城壁にいる南ユダ国民に聞かせるように、アッシリアの将軍はヒゼキヤへのあざけりを続ける。(Ⅱ列王記18:31-37)
アッシリアは南ユダ国を脅かし、国民の心に恐れを生じさせようとしたのだ。
恐れは私たちの敵
脅威となる敵や試練に直面し、自らの弱さにも気付くとき、今日の私たちもヒゼキヤやその民のように感じるのではないだろうか。神の助けに疑問を持ち、安易な解決を求めてしまう。
あなたの門口に立つ敵は誰だろうか。一つ、私が思いつくものは、恐れである。恐れは、人生の様々な局面で、各々の門口にやって来る。今まで起こった人生の大きな試練で、恐れや不安のあったものはいくつあったろうか。何か悪いことが起こるのではないか、よいことはもう起こらないのではないか、という不安。
現在、全ての人々が恐れているもの、それは全世界で広がる新型コロナウィルスの状況だろう。物事が全てうまくいくわけではない。私たちはこの世であらゆる困難を経験しなければならない、とイエスも言っている。確かに、新型コロナウィルスの拡散防止のための対策は取らなくてはいけない。非常事態に備えること、ウィルスに注意して生活することは大切だろう。
しかし、クリスチャンの姿勢として、不安にかられるだけではいけない。イエスに似た者とされた私たちの心が、心配で取り乱すだけであってはいけない。もし私たちがイエスに心を向けるなら、恐れが入り込む余地はない。聖書は、恐れてはいけないと、何度も私たちに教えている。私たちが恐れるべきなのは、地獄に人間の体も魂も送り込むお力のある神のみなのだ。私たちはキリストによって救われ、私たちを神の愛から引き離すものは何もない。だから私たちが恐れるものは何もないのだ。
恐れに振り回されるだけというのは、クリスチャンの姿勢としてふさわしくない。ではどうすればよいだろうか。イエスが今日も明日も共にいてくださるのだから、私たちは将来を心配する必要はないのだ。これをしっかりと心に留め、神に祈り、神を賛美し、憐みを請い願い、試練の中でもイエスを見上げ、信頼していくことが大切ではないか。また、病で弱い立場の方など、困っている周りの人々にどう仕えていくかに、私たちはもっと心を向けていくべきではないか。
聖書に戻ろう。アッシリアの将軍の言葉はサタンを連想させる。サタンはこのように私たちに話しかけるからだ。「お前など何の価値もない。今のお前の状況に何の望みもない。誰も何も助けてくれないよ」とサタンはささやく。妥協する道が目の前にあるとき、サタンは「易しい方を選べばいいじゃないか」とささやくだろう。
アッシリアの将軍は何度も、「お前たちの神を信じるな。その神はお前たちを助け出してはくれない」というようなことを言った。サタンはそれよりもっと巧妙だ。サタンは神の話題を表には掲げない。サタンは私たちが神のことを考えないように、問題だけに心を向けさせる。私たちの心にある恐れを利用するのだ。
聖書はサタンについて、このように記している。
「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。」(Ⅰペテロ5:8-9)
神に助けを求める
私たちは、神が民を救う話を聖書でたくさん読んできている。しかし、本当に神が救ってくださるという確信を持っているだろうか。神が今までに何度も私たちの祈りに答えてくださったことを忘れていないだろうか。私たちは神に助けを求めるだけではなく、神からどのような応答があったかを注意深く見ていかなくてはならない。「神がどうお答えになったか」を後で振り返ってみよう。神のお答えに気付き、感謝をもって思い返したいものだ。
待つ時間は往々にして長い。私たちは神に向かって憐みを請い、待つことしかできない。その間、私たちは恐れに支配されないよう努め、父なる神に心を向ける。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Ⅰペテロ5:7) 神は私たちの祈りを聞かれ、神の賢い方法と最適のタイミングでお答えになるのだ。
私たちが神に助けを求めるときに、ヒゼキヤ王のような重大な危機や問題である必要はない。父なる神は、例えば熱が出たというような、子ら(私たち)の小さな事柄をも心配してくださるお方だからだ。
先月、私たちの娘ソフィ(0歳児)が初めて熱を出したとき、私たち夫婦はかなり動揺した。ソフィが寝ない!ずっと泣いてる!ミルクの飲みがすごく少ない! 初めての子育てで、睡眠不足が続いている中で、赤ちゃんが初めて熱を出したとなれば、若い親にとっては一大事だ。結局、神は娘の熱を下げてくださり、この一大事を乗り切ることができた。私は神に本当に感謝した。またソフィが(妻からのミルクを何故か嫌がり、悩みの種で祈っていたのだが)、再びミルクを妻からも飲むようになり、本当に感謝だった。神はこのことを思いがけないタイミングと方法でなしてくださった。
イエスは戦いに勝利した
私たちとサタンとの絶え間ない戦いにおいて、イエスはサタンを打ち負かし、恐れから私たちを解放してくださる。
「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル2:14-15)
十字架は、サタンの力を打ち破る神の道となった。そして罪、死、恐れから人間を解き放ってくださった。だからクリスチャンは、この世の悪の力や、いろいろな悪いニュースに恐れで振り回される必要はないのだ。
悪魔は吠えたける獅子かもしれないが、鎖でつながれている。悪魔は小さな戦いで私たちを打ち負かすこともあるかもしれないが、悪魔の時は短い。同様に、この世とこの世の苦しみは、いつかは終わる。イエスが約束されたように、イエスは再臨のとき、恐れをもたらすもの全てに終止符を打たれる。そして私たちを全く新しい神の御国へいざなってくださるのだ。
結論
私たちは小さな存在だ。しかし、神は力があり情け深いお方である。今日も私たちの小さな戦いは続くが、神は大きな戦いに勝利されたのだ。そして神は、私たちを素晴らしい未来へと導いてくださる。私たちを慈しみ愛してくださる神と共に過ごす未来へと。
ヒゼキヤは暗く困難なときを通らされたが、神の救いと共に夜明けがもたらされた。Ⅱ列王記19章には、神がアッシリアからヒゼキヤをどのように救ったのか記されている。
最後に、Ⅱ歴代誌にあるヒゼキヤの言葉を紹介したい。エルサレムがアッシリアに包囲されたとき、ヒゼキヤが国民に向かって言った言葉だ。
「強くあれ。雄々しくあれ。アッシリヤの王に、彼とともにいるすべての大軍に、恐れをなしてはならない。おびえてはならない。彼とともにいる者よりも大いなる方が私たちとともにおられるからである。彼とともにいる者は肉の腕であり、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる方である。」(Ⅱ歴代誌32:7-8)
今日、あなたの門口にいる敵は誰だろうか。あなたは主に助けを求め、主のお答えを待ち望むだろうか。どうかあなたが主の力と愛を経験できますように。