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4章1節には、「神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」と書かれています。まず、神の安息について考えてみます。イエスが大祭司として、私たちクリスチャンに与えくださるもの、それが神の安息です。イエスは十字架につき、私たちの罪を赦し、私たちと神との関係を回復してくださいました。神との新しい契約に生きるクリスチャンは、神の安息の中に生きることができる者とされています。そのことを明らかにするために、へブル書の作者は、旧約聖書の出エジプトの出来事を引用しています。皆さん、覚えておられますか。イスラエルの民は、モーセの十戒を守ることを通して、祭司の王国、聖なる国民となれた可能性があったことを。そして、カナンの地が彼らの安息の地になるはずだったことを。しかし、残念ながら、彼らはカナンの地で罪を犯し、国は不安定になり、二つの国に分裂し、それぞれが捕囚とされ、国が滅んで行った、それがイスラエルの民の歴史です。出エジプトの出来事は、残念ながら神の安息をもたらすものではありませんでした。それは、彼らの不信仰のためであったと指摘しています(3:19)。しかし、イエスは私たちに第二の出エジプトの経験を与えてくださったのです。それは、私たちを罪の奴隷状態から解放し、私たちを神の民としてくださり、神の安息を与えてくださっていることを意味しています。そのために必要なのは、福音を正しく聞き、その福音を信仰によって受け止めていくことです。へブル4章2節を読んでいただきたい。神の安息に入れないのは、「みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」と書かれています。続いて3節には、「信じた私たちは安息にはいるのです。」と書かれています。神の安息にはいるためには、みことばが、信仰によって結びつけられていることが必要です。へブル書11:1節には、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。そのように、信仰は私たちの心や思いを変える力があるものです。福音こそ、神の力です。イエスを信じる者は救われます。天国が約束されています。私たちは神の祭司、聖なる国民とされています。これらは聖書の約束です。私たちは、信仰をもって、これらの聖書の約束を神の約束として、受け取る生き方を始めて行きたいと願っています。勿論、私たちの人生、良いことだけではありません。しかし、毎日、イエスと共に生きてまいりますとの信仰の告白をもって生きることはできるはずです。そのような生き方を始める時に、大祭司なるイエスが共に生きてくださり、試練からの脱出や、神の安息を経験できると私は、信じています。
4章6節には、「その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、」とあり、9節には、「安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。」と書かれています。前に福音を説き聞かされた人々とは、出エジプトのイスラエルの民のことです。私たちクリスチャンのために、神は安息を残してくださったのです。11節には、その安息にはいるよう力を尽くして務め、と書かれています。神の安息にはいるためには、わたしたちの心の正しい姿勢や努力が必要となってきます。不従順や不信仰の歩みを止めて、信仰による歩みを始めることこそ大切です。
12節には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」とあり、13節には、「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」と書かれています。私たちは大きな恐れをもって、聖書と神様を見なければなりません。しかし、私たちがすることは、神の言葉を福音としてしっかりと聞いていくことです。自分の足りなさや、心の罪深さを聖書から示される時は、そのような罪人のためにキリストはいのちをおすてになり、罪の許しを与えてくださっていることに目を注いでいくことが大切です。大祭司なるイエスがあなたと一緒に生きておられます。あなたの感謝や祈りを聞いてくださいます。聖書はあなたをダメにする書物ではなく、あなたを生かそうとする書物です。神様はあなたに、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と語りかけておられます。そのように、神のことばを福音としてしっかりと聞いていくことが必要です。恐れのこころを持ち続け、福音に耳を傾けながら、神の安息にはいっていく者でありたいと願っています。