交わり― パートナーシップ、困っている人に物で支援すること

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主にある兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。前回から「交わり」をテーマにお話ししています。「交わり」はとても広いテーマです。先月、交わりは神との繋がり、そして他の信徒との繋がりでもあることをお話ししました。今日は、別の視点から、交わりの二つの側面についてお話しします。第一にパートナーシップとしての交わり、第二に他の信徒の必要を満たすために物で支援する交わりについてです。お祈りします。

交わりはパートナーシップ
聖書の「交わり」という言葉にはパートナーシップ(共同、協力関係)という意味があります。新約聖書ではコイノニア(koinonia)とメトコス(metocos)という二つのギリシャ語が使われています。この二つのギリシャ語は、交わりの意味の他に三つの違ったタイプのパートナーシップの意味があります。それらはビジネスのパートナーシップ、ミニストリーのパートナーシップ、主とのパートナーシップです。

第一にギリシャ語のコイノニア、メトコスはビジネスのパートナーシップを意味します。ルカ5章7節、10節の例が明確に表しています。ヤコブとヨハネはペテロのパートナー、協力者として召されました。彼らは皆漁師ですから、ある意味ビジネスパートナーですね。この二つの節に使われているギリシャ語はメトコス(metochois)とコイノニア(koinonoi)の変化形です。

第二にコイノニアという言葉にはミニストリーのパートナーシップの意味もあります。例えば、パウロは手紙でミニストリーのパートナーシップについて述べる時にコイノニアという言葉を使っています。第二コリント8章23節でテトスはパウロの仲間(koinonos)です。ピレモンへの手紙1章17節では、パウロはピレモンの親しい友(koinonon)です。ピリピ人への手紙1章5節では、パウロはピリピの教会が「最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来た」(福音を広めるために共に協力したという意味でkoinonia が使われている)ことを喜んでいます。

第三にギリシャ語のメトコスには神とのパートナーシップという意味があります。ヘブル人への手紙では、主とのパートナーシップについて書かれている箇所で、ギリシャ語のメトコスが使われています。ヘブル人への手紙3章1節「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。・・・イエスのことを考えなさい。」 この箇所の「(天の召しに)あずかっている」は英語ではshare(分かち合う)、ギリシャ語ではメトコスの変化形のメトコイ(metochoi)が使われています。この言葉はヘブル人への手紙3章14節と12章8節でも使われています。この世界に神の御国を建てるキリストと私たちはパートナーなのです。そのことが神とのパートナーシップの意味を持つメトコイという言葉で表されています。   

交わりはパートナーシップであるという理解をクリスチャンとしてどのように活かしていけばよいでしょうか。聖書的な交わりは、単に一緒に食事したりコーヒーを飲んだりおしゃべりすることではないということです。単にお互いを知り合うことが交わりではないのです。交わりがパートナーシップであるなら、私たちクリスチャンは共有する目的やゴールのために共に労することです。クリスチャンが共有する目的は何でしょうか。この共有する目的について触れた後で、交わりの第二の側面についてお話しします。

教会の目的:礼拝によって神をほめたたる、神の民の成長、伝道
クリスチャン、そして教会が共有している目的は何でしょうか。この目的についてはいろいろな言葉でこれまで表現されていますが、教会の主要な目的を三つ挙げたいと思います。第一に礼拝を通して神の栄光をほめたたえること、第二に神の民を霊的に建て上げること、第三にイエスの福音を人々に知らせることです。

教会の第一の目的は、礼拝を通して神の栄光をほめたたえることです。礼拝とは何でしょうか。礼拝はただ神に向かって賛美を歌うことではありません。確かに賛美は神に礼拝を捧げる一つの方法ですが、そもそも礼拝とは何でしょうか。礼拝は、何かや誰かが本当に素晴らしく偉大であることを信じ、それを表現することです。私たちは自然の素晴らしさを見ると、その美しい自然やこの世界の全ての生き物を創造した神を崇めます。受難日やイースターを祝う時、神が私たち自身の罪から救ってくださったことを知らせるために人々を教会に招きます。
もうすぐクリスマスですね。クリスマスは、神が思いがけない方法で私たちを救ってくださったことを覚える特別な時です。イエスはか弱い人間の赤ちゃんとして、貧しい両親の下にこの世に生まれてくださいました。神を礼拝することは、他の何者もかなわない神の私たちへの憐み、神の創造性、神の知恵、神の善に驚きの思いを持って感謝を捧げることです。

教会はキリストの御体と言われていますが、教会の第二の目的は、神の民を霊的に建て上げることです。例えば運動は体をより健康に強くするためにしますね。運動しなくても生きてはいけるでしょうし、病気はしないかもしれませんが、強い体ではないですね。険しい山を突然歩かなくてはいけない時、階段を上らなくてはならない時、重い荷物を運ばなければならない時、体はすぐ痛くなってしまうでしょう。同じように神の民は霊的に強く成長していかなくてはなりません。霊的な食べ物、霊的な訓練をしていかないと、私たちは霊的に不健康になってしまうのです。霊的に不健康な時に困難がやって来たら、大けがをしてしまうかもしれません。他の人々を助ける力も弱まってしまうでしょう。

先日、伊野牧師はヘブル人への手紙6章から宣教してくださいました。ヘブル人への手紙6章の第1節には「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」とあります。その前の5章では、私たちがミルクから固い食べ物へ変えていく必要があることが書かれています。それはちょうど赤ん坊の食事がミルクから離乳食になって成長していくようにです。歯が全部生え揃って、人間はやっとステーキのような固い物を食べられるようになります。赤ん坊は固い物は食べられません。エペソ人への手紙4章15節ではこのように書かれています。「・・・あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」
コロサイ人への手紙1章28節には「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。」とあります。

まとめますと、クリスチャンとして私たちは霊的に成長し、成熟に向かって建て上げられていくようにと聖書は教えています。霊的な成熟を示すものは何でしょうか。それは大きなテーマですが、今日のメッセージに関わる一つの目印としては、霊的に成熟したクリスチャンは喜んで神の福音伝道のために自らを捧げます。

教会の第三の目的はイエスの福音を世の人々に知らせることです。イエスが地上を去る前に弟子たちに言った最後の言葉の一つは、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。・・・。」(マタイ28:19-20)

聖書研究で有名なD.A.カーソン教授(米国トリニティ神学校)はイエスのこの命令の重要性を、厳しい言葉で次のように言い表しています。「伝道しなさい。できなければ死んでしまいなさい。」
カーソン教授は、伝道を優先しない教会は神の目的を果たしていないし、教会の将来をも終わらせてしまうと言っているのです。新しい人が来ない教会はすたれてしまい、最後には誰もいなくなってしまいます。

さて、交わりはパートナーシップであり、このパートナーシップは神の目的を果たすためであることをお話ししましたが、これを踏まえて、教会はどうしていくべきでしょうか。IBF教会はどうあるべきでしょうか。私たちは教会が神のパートナーとして、神の目的を果たしているかを定期的にチェックする必要があると思います。例えばIBF教会の週報に4つのビジョンが書かれています。感動的なワーシップ、街に仕える使命、聖書による成長する人生、家族へのサポート。教会の働きがこれらのビジョンに向かっているか、教会の働きがしっかりと進められているかを省みていくことが大切だと思います。また教会の一人ひとりは神に時間を捧げ、神と共に歩んでいるでしょうか。もしくは教会のリーダーたちに全て任せきりになっていないでしょうか。

ここまでのところをまとめます。クリスチャンが真の交わりを持っている時、神の目的を果たすためにお互いにパートナーとなります。神の目的は、礼拝で神をほめたたえること、霊的に互いに成熟していくこと、そして神の素晴らしさ、イエスの救いの必要を人々に伝えていくことです。

物を分かち合う交わり
交わりはパートナーシップであると最初にお話ししましたが、もう一つの交わりの側面は、困っている人々を物で支援することです。聖書にこの交わりについて書かれている箇所があります。第一コリント1章9節にパウロは「神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。」と書いています。ここでの「交わり」という言葉はギリシャ語では「コイノニア」が使われています。このギリシャ語はローマ15章26節にも使われていますが、この箇所では英語で「contribution」(寄付)と訳されています。「それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金(きょきん。金銭を出し合うこと。)することにしたからです。」

また、コイノニアの関連語に「コイノニクス」という言葉があり、パウロは第一テモテ6章18節で使っています。「コイノニクス」は喜んで分かち合うという意味があります。「また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。」(Ⅰテモテ6:18)つまり、聖書の「交わり」という言葉にはこの側面があるのです。困っている人々への支援です。

コロナ禍で職を失った方が多くいらっしゃいます。私のマレーシアの教会でも解雇されてしまったり、自営業を続けるために四苦八苦している友人がいます。また、マレーシアには多くの難民がいて、政府の援助が受けられずに、実際に食べ物に困っている人たちがいます。
ですから、神が教会を使って、難民のような困っている人々に手を差し伸べておられるのを聞くと、私の心は励まされます。最近、妻エレナのマレーシアの教会が難民に食料支援を始めました。難民は物質的な支援はもちろんのこと、教育や言葉の支援も必要としています。マレーシアの私の教会の女性がミャンマーの難民の子どもたちを集めて勉強を教えていました。これは全てボランティアで運営されていて、アパートの一室でたくさん人が集まって行われていました。コロナ禍で今は集まっての授業はお休みしていますが、オンライン授業を提供しているそうです。

日本でもクリスチャンたちがお互いに助け合ったり、災害で困った人たちを支援したりしています。私たちのそのような支援の行為は神をほめたたえることになります。私自身、IBFや他教会のクリスチャンによって祝福を受けています。例えば娘のソフィーが生まれた時、たくさんの赤ちゃんグッズをいただきました。服もたくさんいただいたので、ほとんど買わなくて済みました。実際、十分過ぎるほどの服をいただいた後も、服が200着以上集まり、エレナはもう要りませんとお断りしなくてはならないほどでした。また、IBFとマレーシアの教会は5年以上も宣教師の私を支援してくれています。いろいろな形で私たち家族を支えて下さり本当に感謝しています。
クリスマスの季節、福音は人々の心を寛大に、惜しみなく分け与えたいという気持ちにさせます。初代教会のクリスチャンが困っている人々に持ち物を惜しみなくあげたことが使徒の働きで書かれていますが、クリスマスと似ていると思います。

私たちは神の子どもなので、最終的には神に全てをおゆだねします。私たちの銀行残高や給料がいくらでも、私たちの能力がどうであろうと、どんな状況でも神の力は無限です。神はこの世界を治め、そして神の子どもたちを治めておられるので、皆さんは何一つ欠けるところがないのです。同時に私たちが持っているものは全て神から与えられているものですから、私たちの所有しているものは神の所有物と考えなければいけません。私たちは神の所有物をただ管理させてもらっているだけなのです。

結び
交わりとは何なのかをまとめます。聖書で言う交わりは、第一に、キリストにある信仰、祝福、苦しみにおいて結び合わされた、イエスを信じる者たちの繋がりです。第二に交わりは、神の目的を果たすためのパートナーシップです。ですから私たちは礼拝において、神の御名をほめたたえ、賛美し、イエスに似た者になるために成長し、周りの人びとに福音を伝え導いていくのです。また、困っている人々に物を分け与えることも交わりです。

最後に初代教会の交わりのスピリットが表れている、使徒の働き2章の箇所を読んで終わりたい思います。使徒の働き2章42節~47節には初代教会がどのようなものであったかが記されています。
「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」

現代の教会と細かいところは違うかもしれません。しかし、どのような形であれ、神の善なる、素晴らしい目的を教会が果たしていけるよう願います。