あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。

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今回は、「あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。」(マルコ9:50)からのメッセージです。
この世で生きるクリスチャンの自覚を呼び起こす言葉である。塩は昔から防腐剤として使われており、原形を失ってもその存在が誰からも認められるものである。このテーマに入る前に、イエスの語られたメッセージから、今回は3つのポイントを簡単に学んでみようと思う。マルコ9章38ー50節を読んでいただきたい。

まず第一に、イエスの語られた言葉から教会の協力とその働きの拡大にポイントを置いて見てみたい。38節には、「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」とのヨハネの言葉が書かれている。自分たちの仲間ではないとの理由で、イエスの名で悪霊を追い出すことをやめさせようとした。イエスの答えは「やめさせることはありません。・・・わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」とある。イエスと時間を共にしなかった人たちの中でもイエスの味方、新たな弟子たちがすでに起こっていたようである。彼らは、イエスの語られたメッセージを聞き、奇跡を目撃した隠れたイエスの仲間である。そのような信仰者が起こされて行ったことが暗示されている。

ところで今日、新型コロナウィルスの予防のため、多くの教会では礼拝が持てない状況が続いている。礼拝の休止は、私たち信仰者にとって、政府からの自粛の要請を受けての心が引き裂かれる決断である。同時に礼拝の姿が大きく変わり、インターネットを使ったメッセージ配信を取る教会も起こっている。教会の新たな伝道の方法も起こされている。これからの教会間の協力関係も見直しの必要性が生じている。自分たちだけが良ければ良いでは神の福音のメッセージは広がっては行かない。孤立的な教会から脱皮して、信仰者の間で、また教会間で、違いを乗り越えて励まし合うことができる新たな環境が起こっていくことを神は願っておられると私は信じる。

第二のポイントは、天国の希望を持つ者としての自分の行動の変容である。41、42節には、「あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。・・・また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまづきを与えるような者は、むしろ大きな石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」とある。そして、続けてあなたの手が、あなたの足が、あなたの目がつまずきを引き起こすなら、切り捨て、またえぐり出しなさい、と驚くような言葉が語られる。これは、キリストの取られる強調表現であり、文字通りに取ってはいけない。

むしろ、私たちの思考を変えることにチャレンジしておられる。それは、何を見て、どこに行き、何に手をだすかは、私たちの思考が決めているからだ。天国に入るためには、何を選ぶかの決断が求められている。水一杯でも飲ませてあげる行為、小さき者への配慮などに思いを向けることが教えられている。私たちの思いを変えることが必要で、助け合う仲間になること、そしてキリストの福音を信じて、愛の実践者として生きることと、キリストを心の中心に迎えて生きる決断が求められている。

第三のポイントは、今日のテーマである、自分自身のうちに塩けを保つことである。49節に「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」と書かれている。火によってとは、試練や迫害を通してと考えられる。クリスチャンは試練や迫害を通して育てられる存在である。ローマ人への手紙5章3-5節には、「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」とある。この手紙を書いたパウロほど、試練や迫害を通った信仰者を私は知らない。患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す、なんてすばらしい言葉であろうか。

神様は目的をもって、試練や患難、迫害を私たちの人生に許される時がある。試練を通して私たちは腐敗や堕落から守られて行く。試練を経験した者は、他者への思いやりを持ち、かつ自分自身にも優しく、かつ厳格に生きるようになる。そしてその人たちの内側から、忍耐力や信仰、品性、愛、また、希望が現れ出るようになる。これらのことは人間の努力では本当に難しく、不可能に思える。しかし、聖霊の導きの中で塩けを保つ人生が可能となると私は信じる。ところで、あなたはどうであろうか?新型コロナウィルスの感染予防のために緊急事態宣言が出され、多くの不自由や不安の中に私たちは生きている。これらの試練は、私たちの人生に塩けをもたらすものであることを信じようではないか。塩けは、目に見えるものではない。だが確かに試練や困難を通して、神が私たちの人生に備えてくださっておられることを信じて生きようではないか。