先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。

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今回は、「先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(マルコ10:31)からのメッセージです。
行いによって天国に入ろうとする者は後にされ、信仰と恵みによって天国を待ち望む者が先にされる、その真理が明らかにされる聖書の箇所です。このような表現をイエスが他のところでも使っておられます。興味ある方はマタイ20章16節、また、ルカ13章30節を見ていただきたい。今回のメッセージは、前回のメッセージに続いていて、行いによって天国を求めた金持ちをは後にされ、むしろ子供たちのような心をもってイエスを信じる者こそ先にされる、そのような理解が背景にある。あなたもイエスの語られる真理に気付くならば、もっとキリストとの人格的な交わりを喜び、神の恵みを感謝する人生に目が開かれて行くものと私は信じる。それでは、マルコ10章23-45節を読んでいただきたい。

まず、その背景を見てみよう。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」(23節)との言葉に驚く弟子たちとイエスの会話がある。これらの会話の最後で、ペテロは、「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」(28節)と自分の業を誇り始める。イエスはそのような弟子たちをありのままに受け入れて、「わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。」(29,30節)と語りかける。弟子たちは何も持たないようでも、実はすばらしい救い主との時間を共にしている。福音のために、たとい仕事や家族を捨てたとしても、救い主イエスと共にいる時間ほど、高価で貴重な時間はないはずでは、と私は思う。百倍とは文字通りの数字の意味ではなく、それだけ貴重な時間や、すばらしい恵みや祝福を意味している。また、イエスの次の言葉をかみしめてほしい。「今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」と。迫害をこれから受けるであろう弟子たちに、永遠のいのちを約束しておられる。人との比較の中で自分を誇ってしまう弟子たちに、イエスはとてもやさしく接しておられる。皆さんもお気づきではと思うが、自分たちはすべてを捨ててイエスに従ってきたとの思いは、一種の自己満足でしかない。そんな彼らに、「先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」とイエスは語りかけておられる。

さあ、他人との比較の中に生きている弟子たち、ヤコブとヨハネはイエスにこっそりとお願いする。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」(37節)と。何という自己中心的なお願いをするのかと私は思う。イエスは、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマをうけることができますか。」(38節)と語りかける。「わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマ」とは、これからイエスの身に起ころうとする受難と十字架での死を表していると理解される。二人の弟子はできますと答える。この時点で彼らはその意味を理解していたとは思えないが、後にヤコブは殉教の死を遂げ、ヨハネは、島流しにされ、ヨハネの黙示録を書く者とされて行く。彼らの歩みは実に興味深い。他の弟子たちは、2人がそのような願いをイエスにしたことを聞いて腹を立てたとある。誰が一番偉いかとの議論は、この時点で常に弟子たちの心を支配していたようである。そのような弟子たちにイエスは、「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先にたちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」(42-44)とお答えになる。なんと優しく、イエスは弟子たちに接しておられるのかと私は驚く。イエスのメッセージは本当に簡単である。みなに仕えることのできる者、みなのしもべとなることのできる者を神は高く引き上げてくださるとの約束である。再度、「先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」とのイエスの言葉が弟子たちの心に響いて言ったのではと私は思う。

さて、皆さんはどうであろうか。イエスが求めておられるクリスチャンにならせていただこうではないか。イエスの与えてくださる恵みの中に毎日とどまり、日々自分のプライドを手放して行こうではないか。そして、家族や友人を愛し、多くの人に仕える人生を選んで行こうではないか。イエスのように変えられ行くことこそ、私たちクリスチャンの人生の目的であると私は信じる。