あの方はよみがえられました

 ↓メッセージが聞けます。

今回は、「あの方はよみがえられました。」(マルコ16:6)からのメッセージです。イエスの体に油を塗りに行った女性たちに、天使が語りかけた言葉です。イエスの十字架を目撃したこの女性たちが抱いたであろう失望や恐れはどれほど大きかったことかと思う。しかし、今回この天使の言葉は彼女たちの心に変革を起こすに十分であったであろうと思う。その言葉を今回は取り上げます。マルコ15章42-16章8節を読んでいただきたい。

十字架で亡くなられたイエスの体の下げ渡しを有力な議員の一人であったアリマタヤのヨセフが願い出てくれた。43節には、みずからも神の国を待ち望んでいた人であったと紹介されている。46節で、「そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を彫って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。」と書かれている。いつも目立たなくても、当時の議員の中にも、イエスをサポートしたいと思っている方がおられたことは、実に心強いと思う。教会もそうである。どうしようもない現実に出会う時にも神は時にかなった助けを備えておられる。今のコロナ禍の中でも、多くの信仰者によって教会の礼拝や活動が守られていることは感謝なことである。私たちの教会だけではなく、日本や世界の教会でもそうであろうと思う。毎週礼拝に出席できなくても、イエスと教会のために何かできることがあるか、そのように祈る信仰者が与えられていることは実に感謝である。あなたもそのように祈ってみてほしい。ヨセフに神が語られたように、あなたの心にも神は働かれ、あなたを通して、神は信仰者の群れを祝福してくださると信じています。

16章からは、マグダラのマリアや他の女性たちが多く登場する。安息日が終わったので、香料を買って、イエスに油を塗りに行こうと思い、週の初めの日の早朝に墓に着いた。と1,2節には書かれている。彼女たちは、イエスの死体にもっと油を塗ってより完全な埋葬をしたいと願っていたようである。その彼女たちが目撃するのは、墓の入口の大きな石がすでに転がされていたことと、墓の中に真白な長い衣をまとった青年が右側に座っている姿である。マルコは青年と表現しているが、マタイ28章2節を見ると、この青年は主の使いであり、み使いであったことが理解できる。マルコの福音書よりもマタイの福音書の方がより詳しく説明されている。マタイ28章もぜひ読んでいただきたい。そこには、大きな地震があり、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったことや、その姿を目撃して番兵たちが震え上がった様子が表現されている。5節から10節を読んでみると、「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。・・・」と天使の語られた言葉が記載されている。8節には、「そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。」と書かれている。恐ろしくはあったが大喜びでとは、彼女たちの心をよく表現している言葉であると私は思う。イエスが死人の中からよみがえられたこと、それこそ私たち人間には、恐ろしくあり、大喜びの出来事であると思う。
今日のテーマは、「あの方はよみがえられました。」であるが、ギリシャ語では、よみがえられたとは、受動態で表現されている。キリストの復活は神の業であることが明らかにされている。イエスご自身も何度もご自身が十字架で死に、よみがえることを語ってこられた。この十字架と復活こそ、神の業であり、キリスト教の信仰のすべてがかかっていることに気づいていただきたいと思う。
第一コリント15:3,4節には、「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、」と書かれている。キリストの復活は神の業であるように、私たち信仰者もいつか神の業、復活にあずかるのである。その希望が与えられていることを共に感謝する者でありたいと願っています。