説教は、基本的に聖書的でなければならないのです。
これは、説教学の中での第一の法則と言えます。
神の言葉に忠実でなければならない。
そして神の言葉に土台を置かなければならない。
神の言葉というと普通、
神の言葉=聖書
と私たちは理解しますけど、実は、聖書がある前から神の言葉があるんですね。
天地万物を創造なさった時、創世記1:3
「光よ、あれ」と神様が言葉を発して、創造なされた。
神の言葉は、その始まりから全てを作られたわけですね。
新約聖書に行きますと、ヨハネの福音書の1章のところで、
「イエス・キリストが言葉である。」て書いてあるんですね。
ですから神の言葉とは、私達にどのようにして、伝わって来ているのかと言うと、天地万物を通して伝わって来ている。
また一番大事なのは、主イエス・キリストを通して、私たちに言葉が伝わっている。生ける神の言葉。
そして言うまでもなく、聖書を通して私達に伝えられています。
だけどそれは、色々議論がそこに起きるかもしれない。
例えば、歴史的にこの聖書は、どうやって出来上がったものなのか?
誰が何時どういう状況の中で書いたのか?
そして、どの部分が聖書に含まれて、どの部分がはじかれたのかという、長い歴史の中でのプロセスがあったんですよね。
それに対する簡単な答えは、聖霊様がそのプロセスを導いてくださったと、私たちは信じるわけなんですけど。
もっと簡単にもっと分かり易く言いますと、なぜ聖書全体が神の言葉であるといえるかというと、直接的あるいは間接的に、聖書の全てが主イエス・キリストに対して証をしているからなんです。
そしてイエス・キリストは、神様の言葉なんですよね。
だからその神の言葉である、イエス・キリストについて語っている聖書は、神の言葉であると私達は理解します。
そしてもう一つの手段、神の言葉が私達に伝えられる手段というのが説教なんですね。
これは大胆な言い方かもしれませんけど、そのイエス・キリストについて証しをする聖書に基づいて語られる説教を我々が聞くときに、神の言葉との出会いがあるんですね。
聖書は、神の言葉と言われながら冷静に言えば、これは紙とインクで出来ているにすぎないんですよ。
だけどこの中に神の真理が含まれていて、そして神の力への入り口になる書物なんですね。
聖書を語る説教と言うのは、ページの上にある文字を生きたものとして人々に体験させるんです。
そこで神の生きた言葉、神の働いておられる言葉に出会うことができる事を説教者は目指すわけなんですね。
そう簡単には、できるものではありませんけど。
そんな中で説教をすることは、誰が説教するのかというと、一般的には、説教者というのは、牧師であったりしますよね。
だけど新約聖書を見ていきますと、必ずしも極限られた一部の人達、特定の教育を受けて、特定の資格を持った人々が説教をしたわけではないんです。
いつの間にか2000年の歴史の中で教会はどんどん組織化されてきて、その中で色々役割があって、そしてその為の準備とか訓練とかトレーニングみたいのがあったりするんですけど、元々は人前で神の言葉について語るってことは、誰でも聖霊の導きさえあればできることなんですね。
でも今でも教会によっては、牧師だけではなく他の方々が語る場もあります。
そして教会の礼拝に限られたものではないですからね。
色んなところで語ることができます。
神学的に言うと牧会者、説教者は、よく旧約の祭司の役割と例えられることがあるんですけど、実は私はチョットずれていると思うんですよね。
旧約の祭司ていうのは、神様と一般の人々の間に立つ人で、仲介者というか、そのパイプがないと一般の人は神様に対して、いけにえを捧げたり祈ったり、あるいは神の声を聴いたりすることができない。
どうしてもその間に祭司がいなければだめ。
だけど我々クリスチャンの信仰の中では、イエス・キリストの到来によって、その必要性が祭司の必要性がなくなったと信じ、特にプロテスタントである私達は、宗教改革において、万人祭司という言葉が出てくるんですけど、我々みんなが直接神様とのつながりを持つことができる、間に誰か特定の人が立つ必要がないと。
だから祭司というのは、ちょっと牧師あるいは説教者とは違うと思うんです。
だけど説教に関して言いますと私は、旧約に出てくる預言者の役割に非常に近いと思うんです。
預言者というのは、なにか一般的に予言というと、まだ起きていない出来事を予告して、それを語ると認識があるんですけど、それだけじゃないんです。
旧約聖書を見ていきますと、預言者の役割は、ひたすら神の言葉を語ることなんです。
それが将来のことについてだろうと、過去についてだろうと、現在についてだろうと、それをストレートに語るのが、預言者の役割だったんですね。
説教は、むしろそっちに近いと思います。
預言と言うのも、聖霊からその預言の賜物が与えられて、預言ができるようになるんですけど、説教と言うのも、本当に説得力のある、人々の心を動かす説教をするというのは、ある程度の神様からの賜物が必要なんですけど、だからと言ってそうでない人達が絶対できないというものではないですし、少し学んであるいは練習していく中では、意外と私達は、誰でもその時その時に応じて、聖霊の導きに頼りながら、人前で神の言葉を語ることができます。
ですから説教者はどこから来るかと言うと、教会の中から来るんですね。
霊的賜物は、聖書の中にいくつもありますよね。
そういう賜物は、どこで発見されるかというと、教会と言う共同体の中で発見されるんですよね。
本来賜物と言うものは、共同体の中、教会生活の中、信仰生活の中で発見されるものであって、それを意外と周りの人達が先に気づくことがあるです。
むしろそのほうが、健全ではないかと思います。
周りから『君は、こういうことが向いているんじゃないか』とか、
『あなたは、こういうところが凄く繊細ですよね』とか
『とてもここは、強いですね、良いですね』みたいな
すすめられて、教会の中で実際にそう言う賜物を少し試してみる、そして練習する、そう言う経験を積み機会が与えられる、これが健全なやり方だと思うんですよね。
私達は、本当にコミュニティでもちろん一人一人個人的に主イエス・キリストに繋がっていることが第一なんですけど、それがどこでその信仰が養われるかと言うとコミュニティの中なんですよ。
キリストの体である教会の中で、共同体の中で、それがはぐくまれ育てられ、そしてその中でどういう人にどういう賜物があるのかっていうのが見えてくるんですね。
今回ここに集まってくださった皆様は、もうすでにこのセミナーに参加するってことで、何かしら説教に関心があるていう、一つのサインなんですけど、それはとても良いことだと思います。
今回の学びを通して自分は、どんな働きができるのかなぁとか知っていくことができれば、素晴らしいと思います。
ですから説教者は、教会の中から生まれすんですね。
神学校からやってくる偉い先生っていうイメージじゃなくて、共同体の中から生まれてきた人。
もしかしてどっかのタイミングで、どっか神学校とか行って教育を受けるかもしれませんけど、それが全ての教育ではありません。
一部だけなんです。
本来は、教会の中で一番多く学ぶことができると思います。
説教は、神の言葉について、神の言葉をもとに神の言葉を代表して語るものなんですけど、そこで基本的に人間だけの行いであれば、神様に用いられる説教にはならないと思いますね。
神様が働いて、それを我々人間を通して語る。怖いことでもありますよ。
私は、良く色んな教会に行って説教するんですけど、礼拝前によく奉仕者と祈りの時があって、よくこういう祈りを聞くんですね。
『神様、今日はピータソン先生を通して、はっきりと私達にみ言葉を語ってください。』て皆さんが期待してるんですよ。
自分が変なことを言ったら、とんでもないことになりますよ。
ドキッとしますね。
だからひたすら自分もそういう時は、「聖霊様、私を導いてください」と
とくに席から立ちあがって講壇に向かうときには、
「聖霊様、語ってください、語ってください。」て祈るしかないんですね。
神の名によって語るのが説教です。
そこで一つ、大事なポイントなんですけど、先ほど第一法則は、
説教は、聖書的でなければならない
と言いました。
聖書的説教とは何なのかと言うのをちょっと考えてみますと、
二つの側面があって、一つ目は当たり前のことなんですね。
聖書的な説教と言うのは、その取り扱っているみ言葉が言っていることを説教も言わなければならない。
聖書が言っていることを説教も言わなければならない、違うことを言ってしまったら、これは聖書的ではないわけですよね。当然ですよね。
だけどね、そこだけで終わるわけじゃないんです。
もう一つの要素は、そのみ言葉がやっていることを説教もやらなければならない。え!て思うかもしれませんけど。
神の言葉っていうのは、その箇所その箇所によって、機能があるんですね。
このみ言葉を通して神様は、私たちの中で何をなされようとしているのか。
その機能、説教を同じ機能を持たなければならないんですよ。
日本語に訳されていない本からきている発想なんですけど、この二つのことを『フォーカス』と『ファンクション』て言うんですね。
『フォーカス』ていうのは、そのみ言葉が言っていること。
『ファンクション』というのは、み言葉がやっていること。
それをいくつかの聖書個所を開いて見て行きたいと思います。
皆さんでディスカッションをもちながら。
どこの聖書個所にしようかなと考えていた時に皆さんが最も知っている箇所が良いかなと思ったんですよ。
それをどうやって選ぶかと言うとね、Goolgleで「聖書の箇所TOP10」で検索したら出てくるんですよ。
第1位は、予想できると思うんですけど、
① ヨハネの福音書3:16
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』
何を言っているのかやっているのか判明するためには、その前後を見る必要があるんですけど、このヨハネの福音書3章て面白いんですよね。
1節から見て行くと、パリサイ派の一人ニコデモとイエスとの会話があるんですよね。
イエスがちょっと難しいような発言をされて、ニコデモが理解に困るんですね。え!どう言うことって。
イエスが丁寧にやさしく説明すれば良いのに、ちょっと冷たいんですよね、ここで。なんでわからないんだよ、お前的な。
そんな返事をしちゃうんですよね。
ちょっとニコデモがかわいそうだなと思うところもあるんですけども、確かにそこでイエスが言ってることを私も読んでいくと、なんか難しいなぁとちょっと考えないとすぐに、スッと入ってくる内容じゃないんですよね。
そこでずうっとイエスの言葉が閉じカッコの中にあって、その閉じカッコが15節で終わってるの。
16節からは、おそらくこの福音書の編集者ヨハネの言葉だろうという風に聖書学者は、理解してるんです。
実は、元の言語には、カッコとか閉じカッコは何もないんです。
だからどこまでが引用でどこが編集者の言葉か非常に難しいんだけど、内容的にほとんどの聖書学者は、この16節からは、主イエスご自身の言葉ではなく、この福音書をまとめた人の言葉だろうという風に理解するんですね。
この説明が16節から21節まで続くんですけど、神の事、神の子、この世の事について比較的分かり易くまとめてくださってるんですね。
丁度その直前に、ニコデモとの若干複雑な簡単には理解できないような言葉があった後に、まるで編集者が、みんなさんここまでは難しかったけども、要はこういうことなんだよと分かり易く、まとめてくださっている箇所なんですよね。
だから言っていることは、比較的わかりやすいと思います。
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』
ここで神の愛について、語ってくださっているんですね。
神の愛と神の厚意について。
私達人間に本当の意味での命を絶えることのない命を与えるために何をしてくださったのか、て言うことがここでまとめられているんですね。
言っている事「フォーカス」てことは、言葉通りなんですね。
イエス・キリストは、愛の表現としてこの世に贈られたものであり、私達は信じるべきであると。
そしてそうすることによって、本当の意味での耐えることのない命を頂くことができる。
これが言っている事「フォーカス」とすれば、ファンクションは、色々言い方はあると思いますけど、ここで何をやっているかと言うと、分かり易く、神様とイエス・キリストと人間の関係性をまとめて私達に分かり易く説明していることなんですね。
説教もそう言うファンクションを持ち必要があるんです。
だからこの個所から難しくて理解しがたい説教を語ってはいけないということなんですよ。
分かり易く人々が“なるほどそういうことなんだなぁ”て納得できるような機能を持つ説教を語る必要があると思います。
ではもう一か所開いて行きましょう。次は、旧約聖書です。
② エレミヤ書29:11
『わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている。
主のことば。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』
この背景と言うのは、1節から10節のところに書いてあるんですが、
29:01
『預言者エレミヤは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民、すなわち、長老で生き残っている者たち、祭司たち、預言者たち、および民全体に、エルサレムから次のような手紙を送った。』
この人達は、本当に大変な体験をされたんです。
国が戦争で負けてしまって、彼は連れて行かれるんです。遠い海外へと。
そこで、彼らはいろんな意味で悲しみと怒りと絶望を体験していたわけなんですね。そしてエレミヤが手紙を彼らに書いたんです。
と言うとこの個所の機能「ファンクション」は何だと思いますか?
・慰め
・手紙を書いた
手紙を書いて送ることによって何をしようとしていましたか?
・希望を与えた
そうですね。慰め、希望、励ましですよね。
そういう機能を持っている箇所なんですよ。
だから説教を語るときに、もちろんこのみ言葉が言っている事を語らないといけないですよ。
神様は、私達のためにあなた方のために良い計画を持っておられると。
神様は、あなたのために良いことを望んでますよと言う内容の説教でなければならないですけど、それだけではなく、実際に聞いている私達聴衆に対して、たとえ試練の中にあったとしても、励ましとか希望とか慰めを与える機能を持つ説教でなければ、それは、この個所に忠実な説教とは言えない。
皆様の好き嫌いな説教についての中で結構言われていたのは、
“日常生活と聖書が結びつくもの”と言うのがありましたよね。
だからこういう個所をただ歴史的に
“この時代は、こう、こう、こうであって、こうだったから、エレミヤはこう語ってそしてその後、こういう結果で終わりました。”
で終わったんじゃ、ファンクションがないんですよね。
“ハイ分かりました。そういう内容だったんですね。了解。”
と事くらいで終わっちゃうくらいなんだけど、これは希望の箇所なんですよ。
だから私達は、ここから語られた説教を聞いたときに、希望を頂けるものであってほしい。
もう一か所開きましょう。また新約に戻ります。
③ ローマ人への手紙8:28
『神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。』
実は、この個所ちょっと先ほどのエレミヤの箇所と重なるところがあるような気がしますよね。
この個所の背景と言うのは、18節あたりから苦難とか試練に出会った時どうすればいいのかっていう、エレミヤと似ているんですね。
これは新約の場合で、イエス・キリストを信じた人達がいろんな迫害に出会ったときのことが書いてあるんですね。
ここで28節では、
『すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。』
これってすごく大胆な発言ですよね。
だって目に見えないことですよ。
最悪なことが起こってる、ぶっちゃけた話、ここで言葉を置き換えるならば、
“すべてのことが”と言うところを
『今起こっている戦争やコロナ禍がすべてともに働いて益となる』
“えー”て思いますよね。ありえない話ですよ。
だけど神の言葉がそう語っているんですよ。
どこでどういう風に神様がそういう悲惨な状況の中で、益となる結果をもたらしてくださるのは、分かりませんよ。
だけどどんな状況の中にあっても、神様は、その中にあって良いことをなさる事ができるお方であり、私達はそれを信じます、とここで告白しているので、この個所はね、ただ単に慰めとか希望とか励ましを与えるだけではなく、これは宣言なんですよ。私達はこう信じます。力強い宣言なんです。
そういう機能を持っている箇所ですよね。
目の前にある状況からすると、ありえない話としか思えないかもしれないけど、私達はこう信じます。
神さんは、たとえどんな状況であっても益となるような働きをしてくださると信じます。信仰告白でもあるんですね。宣言なんですよ。
と言うことは、説教をここから語るとすれば、その説教は力強い宣言の要素を持つ必要がある。
そうすることによって、本当にこの個所と同じファンクションを持つことができるようになる。
最後になりますけど、大体聖書を学んで語ってみようとするときに、よく使われるのが注解書ですよね。
注解書ていう本があって、それを読むと大体、このみ言葉、この個所は、こういう意味ですて説明がいっぱいあるんです。
だけど注解書が言っているほとんどがフォーカスの方なんです。
あまりファンクションについて書かないんです。
残念ながらそれを教えてくれる資料は、あまりないんですね。
私たちひとりひとり祈って、黙想して、考えて読み取るしかないんですね。
一人でやる必要はないですから。
実は、我々説教者の悪い癖なんですけども、説教準備するときに、ずっと一人で書斎にいて、聖書とにらめっこして、さあどんな意味でしょうてね。
だけど本当は、その時間も大事なんだけど、世に出て行って他の人達と読んで“どうおもいますか?”“どう感じますか?”“第一印象なんでか?”ていうのを聞いた方がずっと良いんです。
それぞれ視点が違うんです。
私は私の視点でしか聖書を聞くことができないんですけど、他の人はそれを全然違う視点から聞くことができるから、いろんな人と一緒に分かち合うことがとても大事なんです。
かつて私は、一つの教会を牧会していた時に水曜日の祈祷会の時に、次の日曜日の聖書個所をみんなで一緒に読み、私はあまりしゃべらず、ひたすら皆さんの反応を聞くだけだったんです。
それが凄く自分とって大事でした。
絶対自分では気づかないところをいっぱい気づかされて、本当に良かったですね。
本を読んでるだけでは、ファンクションは中々わからないんですよ。
「ジム先生のご厚意で説教セミナーの内容をHPにアップさせていただきます。当教会の役員の方が録音から文字起こししてくださいました。ジム先生の原稿の翻訳ではありませんので、そのことをご理解の上(会話調になっています)、お読みください。多くの示唆に富むセミナーを開催してくださったジム先生や文字起こししてくださった役員に心から感謝します。」