私たちは聖なるものとされているのです。

 今回は、「私たちは聖なるものとされているのです。」(へブル10:10)からのメッセージです。前回は、「キリストは新しい契約の仲介者です。」(へブル9:15)とのテーマでメッセージを語りました。キリストは、新しい契約の仲介者として、新約の時代を起こしてくださいました。旧約の時代はすでに終わったのです。もうそこに戻る必要はありません。キリストの十字架で十分です。あなたも、私もキリストの十字架を通して、罪の赦しを得ているのです。神は信仰を持つ私たちを聖い者と認めてくださり、私たちは大胆に神の前に出て行くことができるのです。10章では、旧約のいけにと新約のいけにえとの対比を通して、イエスの与えてくださる救いの優位性や完全性を明らかにしています。それでは、へブル10章1-18節を読んでみてください。

1節には、「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実態はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。」と書かれています。ここで語られる「後に来るすばらしいもの」とは、9章11-12節に書かれているように、イエスが大祭司として来られ、永遠の贖いを成し遂げられたことを指し示しています。影である旧約のささげものは、一時的なきよめを与えるにすぎません。4節には「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。」とあります。実際、神様は旧約聖書のいくつかの箇所で、全焼のいけにえなどのささげものを望んでおられないことを明らかにしています。へブルの作者は、詩篇40篇6節からの聖句を引用して、そのことに言及します。「あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。」と書かれています。この箇所を、七十人訳(ギリシャ語)聖書からヘブルの作者は、引用しています。そこでは、「わたしのために、からだを造ってくださいました。」と違訳されています。もともとは、神は、いけにえなどの捧げものより、人々が神のみことばを聞くことを喜んでおられるとの意味があったと思われます。それをギリシャ語訳では、耳をもって聞くことだけではなく、体をもって応答していくことを神は喜んでいると理解したように思います。続けてヘブル書10章6節から読んでみましょう。「あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで、満足されませんでした。そこでわたしは言いました。さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。」その背後にある意味を考えてみましょう。イエスは神の御子として、自分の思いで、全焼のいけにえや罪のためのいけにえの旧約のミニストリーを終えようと決められたのです。旧約のいけにの律法は、キリストが父なる神のみこころに従って、自分を十字架に着けることで全うされたのです。ヘブルの作者は、そのことを明らかにしようとしています。10節には、「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、だだ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」と書かれています。私たちを救うために、キリストご自身が父なる神のみこころに従って、十字架での死を決断されたのです。十字架での死は、へブル9章26節にあるように、ただ一度だけ、罪を取り除くために、ご自分をいけにえとしてささげた死であることをもう一度確認していきたいと思います。キリストの十字架での贖いの業のゆえに、あなたは罪ゆるされ、きよい者とされたのです。聖なるものとされているとは、完了形で書かれています。例え何度も失敗をする私たちであったとしても、神は、ご自分の御子の贖いの業のゆえに、私たちを罪のない、きよくされた者として見ておられるのです。
本当に感謝です。

13節には、「キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、」とあります。一度きりで、永遠のいけにえをささげられたのです。神ご自身であるキリストの十字架は一度きりで、永遠のいけにえです。神の右の座に着きとは、キリストの贖いの業は完了したことを意味しています。それに比べて、旧約の時代の祭司の贖いの業は、毎日立って、繰り返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができませんとあります(11)。旧約の祭司の業は、一時的なきよめの業であり、繰り返し行う必要があったことが明らかにされています。
14節には、「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」と書かれています。ここで、聖なるものとされる人々とありますが、現在分詞形が使われており、時間の経過とともに聖さに預かる生き方を表しています。聖くされた私たちですが、日々聖さに預かっていく者でもあります。そのように私たちを導かれるのは聖霊であることが、15-18節に渡って語られていきます。

永遠の救いは、すでに信仰者に与えられています。救いは完成したと神は見ておられます。だれでもキリストを救い主として受け入れて生きるなら、救われた人生がスタートします。聖霊の導きの中で生きることが大切です。聖い神はあなたにも神の聖さに預かる者として生きてほしいと願っておられます。主は、私たちを兄弟と呼んでくださっています。「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。」(2:11)、この言葉を信じて、聖霊の助けをいただいて、2021年も生きて行きたいと願っています。