試練に耐え忍ぶ人は、さいわいである。

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 今回は、「試練に耐え忍ぶ人は、さいわいである。」 (ヤコブ1:12)からのメッセージです。今まで、へブル人への手紙から長く学んできましたが、今週からはしばらくの間、ヤコブの手紙から学んでまいります。このヤコブは、イエスの兄弟のヤコブであると思われます。イエスの兄弟ヤコブの名は、聖書の中に何度か出てきます。使徒の働き15章12-21節に、エルサレム会議の様子が書かれていますが、そこにはエルサレムの教会のリーダーになったヤコブの発言が出てきます。彼は、イエスの兄弟として育ちましたが(マタイ13:55)、イエスを救い主とは信じていなかったようです(ヨハネ7:5)。しかし、復活のイエスにお会いして、彼の人生が変わって行きました。イエスを自分の主として受けいれ、ユダヤ人キリスト者のリーダーの一人に成長していったのです。エルサレムでの宗教会議では、異邦人にもユダヤ教の習慣を守るように強要するかどうかの内容を話あったのですが、ヤコブはバランスの取れた発言をしています。ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の関係が平和的に解決されるようにとの知恵深い発言をしています。参照(使徒15:19-21)。ヤコブの手紙は、パウロの手紙のように、教理的な面を重視はしていませんが、それは説教のようであり、とても実践的な教えを強調しています。ヤコブの手紙から私たちも知恵をいただいて、良い実を実らせる信仰者になっていきたいと願います。それでは、ヤコブの手紙1章を読んでみてください。

今日のテーマは、「試練に耐え忍ぶ人は、さいわいである。」(ヤコブ1:12)ですが、クリスチャンの成長に、試練や困難は不可欠なものです。イエスも試練や苦しみを通して私たちに救いを提供してくださいました。へブル12章2節には、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせず十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」と書かれています。ヤコブはイエスの十字架を目撃したのではと私は思います。そして、その苦しみを見、また復活されたイエスにお会いし、彼の信仰感や人生感は変わって行ったのではと思います。ヤコブ1章1節では、神と主イエス・キリストのしもべヤコブと、自分のことを紹介しています。イエスの兄弟ヤコブとの関係から、イエスのしもべヤコブとの関係に変化して行きます。それは大きな信仰の決断を伴います。復活のイエスにお会いし、イエスの十字架の意味を知り、彼は変えられたのです。しもべとの表現は、イエスを主とし、彼の歩みや思いに全く従っていきますとの決意が込められています。2節では、「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」とあります。前回のメッセージで、私は、時には試練や困難に私たちは直面します。しかし、そのような困難な時には、神の助けも十分に与えられることも確かです。「患難が忍耐を生み出し、忍耐がねられた品性を生み出す」(ローマ5:3,4)との約束を握りながら、神のみこころが私たちのうちでなされますようにと祈っていきましょう、と語りました。試練や患難は、クリスチャンの成長に不可欠です。その理解に立つと、ヤコブのようにさまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい、との視点が生まれてくるのではないでしょうか。私たちの成長のための試練は神のみこころのです。試練を喜ぶ信仰を持つことができるのです。4節には、「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」とあります。試練を喜べるのは、試練は成長の道であるということを知っているからです。成長を遂げるとは、霊的な大人の姿です。完全な者とは、あらゆる面で成熟し、バランスの取れた者のことを言います。罪のない完全を言うのではありません。3章2節では、「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体をりっぱに制御できる完全な人です。」とあるからです。バランスが取れて、からだ全体を制御できる、そのような人を完全な者と言っています。その様な成長には、試練や困難は不可欠です。そのことを体験し、知っていたヤコブであったからこそ、試練を喜びと思いなさいと語ることができたのではと思います。

5節には、「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」と書かれています。神からの知恵は、特に私たちが試練の中にある時に必要になってきます。自分の人生に対する試練の真の意味を知るには神からの知恵が必要です。特にギリシャ語のペイラスモスは、二重の意味を持ち、試練とも誘惑とも訳すことのできる言葉であるからです。困難に直面する時に、私たちを成長させる試練であるのか、自分の欲にひかれて起こった誘惑なのか、正しく判断して行く必要があるのではないでしょうか。誘惑ならそこから離れる必要があるのです。ソロモン王が、善悪を判断して、民を裁くために聞き分ける心を求めたように(第一列王3:9)、この試練の意味を教えてくださいと私たちは神に祈ることが必要であると思います。

12節では、「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」と書かれています。試練は耐えるものです。誘惑は離れるものです。試練にあう時には、ローマ書8章28節にあるように、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを信じる信仰を持つことが大切です。第一コリント10章13節にあるように、神はあなたに試練を耐える力や脱出の道も備えてくださっています。時には動きの手を止めて、立ち返って静かにし、神の安息を喜ぶことです。(参照箇所、イザヤ30:15、へブル4:10)いのちの冠が与えられる、その希望を持って、試練に耐えていこうではありませんか。

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