「見つけるまで注意深く捜さないでしょうか」_北澤牧師

 ↓メッセージが聞けます。(第一礼拝録音)
【iPhoneで聞けない方はiOSのアップデートをして下さい】

 主イエス・キリストの語られた6つの譬え話 その2
ルカの福音書15章8節~10節

 また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。
 見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。
 あなたがたに言います。 それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。

①ルカの福音書15章には、主イエス・キリストの口から語られた3つの譬話が、連続して記されています。
 きょうは、皆さんと、その二番目の譬話「無くした銀貨の譬」の所から神さまからのメッセージを捜してゆきたいと思います。

・先ずは、早速、その譬え話の内容を振り返ってみてみたいと思います。

・8節には、「銀貨10枚持っている女がいて」とあります。 
何でもないような言葉ですが・・当時の人たちは、この言葉を聞いただけで、ここにいる女の人が、どういう人であったのか、ピンときたようです。

・この銀貨、これは、ギリシャの貨幣で、1ドラクマ銀貨でした。
皆さんは、1デナリというローマの貨幣のことをご存知だと思いますが・・
この1ドラクマも、この1デナリと同じ価値で、一日の労働者の賃金でした。

・では、当時の労働者の賃金1ドラクマとは、現代に置き換えるとどれくらいの貨幣価値があったのかですが・・諸事情を考えますと、だいたい1000円くらいであったと思われます。

・仮に、一ドラクマ1000円として計算してみますと・・この女性は、今、1000円の銀貨10枚。
 総額で1万円程度になる銀貨をもっていた、ということになります。

・つまりこの女性は、金持ちでもなんでもなく、極普通の質素な生活をしていた一人の女性であったわけです。

・ではこの極普通の質素な生活をしていた女性が、銀貨10枚を持っていた、というのは、いったいどういう意味なのでしょうか・・

・多くの聖書学者が当時の習慣に注目しています。 当時、女性が結婚するとき、持参金として、銀貨十枚を、首飾りのようにして持参したのだそうです。

・ですからここで主イエスが、「ある女が銀貨10枚もっていて・・」と、語り始めたとき・・
当時の人々の多くの人が、結婚式を目前にした、一人の素朴な女性のことを連想したと思われます。

②つまり、この譬え話は・・どうやら、結婚を直前にして、心躍らせながら、その準備をしていた一人の女性が、あろうことか、その、大事な大事な銀貨10枚の内の一枚をなくしてしまった、という話である様です。

・さあ大変です。もし、その一枚が見つからなかったら、結婚式に行けなくなってしまうかもしれません。
彼女は、当然ながら、必死に探し始めます。 

・しかし、なかなか見つかりません・・。 そこで彼女は、どうしたのか、といいますと・・
 8節を見ると、「明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで家中を必死に探しはじめた」のでした。

・この女性が、もし貴族のように経済的余裕がある女性でしたら「一枚くらい、なくなってもいいか・・」
そう思って、どこからか別の銀貨をもってきて、首飾りにつけ、それで問題は解決となったでしょう。

・しかし、この人には、そのようなお金はどこにもありません。 
彼女にとって、この、見えなくなった一枚の銀貨は、単なる銀貨一枚というより、大事な日のために、なくてはならない銀貨一枚だったのです。

・もし見つからなかったら、結婚式に行けなくなってしまう・・そういう銀貨一枚だったのです。
 つまり、お金に余裕のある人から見れば、「たかが銀貨一枚」なのですけれども・・彼女にとって、その一枚の銀貨は・・「かけがえのない銀貨一枚いのちがけの一枚」であった訳です。

・そういうわけで、彼女は、この無くなった一枚のかけがえのない銀貨を、文字通り、懸命に探しはじめるのでした。 家中を掃き、念入りに、隅から隅まで、探すのでした・・。

・そしてついに見つけ出した時、彼女は、「見つかったあ!やったあ!」と飛びあがる様にして喜んだのです。

・彼女は、あまり嬉しかったので・・その喜びを、友達や近所の人たちと、分かち合おうと思い、その友人、近所の人たちを呼び集めて、こう言うのでした。 「一緒に喜んでください!」

・もうお気づきだと思いますが・・この一枚のかけがえのない銀貨、それは、私たち一人一人の事を 譬えているのです。

③話が、聖書記事から少し離れますが・・昨年のことでした。車で、平塚市の国道を車で走っていました時、目の前に、中古のCDを売っているお店が目に入りました。

・そこで私は、車を止めて、その中古販売店に入り、さっそく、一番端っこにある・・
「クラッシック」と書いてあるところの前に立ちました。

・こういうお店に行きますと、私は、決まって、先ず、「ベートーベン」と書いてあるところ、そして、「ピアノ協奏曲」と書いてある所のCDを捜しはじめます。

・なぜ、そんな、ことがルーティーンとなっているのか、と言いますと・・
実は、ざっと20年間から、探しつづけているCDがあるからなのです。 

・私が20年以上探してきたCD、それは、若かりし日の小澤征爾さんが、シカゴにいる時、ルドルフ・ゼルキンという私の大好きなピアニストと一緒に録音した、ベートーベンの皇帝と呼ばれているピアノ協奏曲第五番のCDです。

・私は、この演奏をずっと昔から、カセットテープで聞いていたのですが・・余りに何回も聞くので、ついにテープが切れてしまったのでした。 特に、二楽章が、もう説明できないくらいにすばらしい演奏なのです。

・「そんなの中古屋さんなどで探していないで、どこかに注文して買えばいいのに」そう思われる方もおられるかもしれません。しかし、廃盤になったと聞かされていたので、これはもう中古屋さんで探すしかない、そう思ったのでした。 そして何と約20年間、訪れた店舗延約100店。ずっとずっと探し続けて来たのでした。

・そのCDを何とこの時、私はついに探し当てたのでした。それも500円でです。

・「いい年をして、馬鹿じゃないか・・そんな、どうでもいいようなCDを捜し続けているなんて・・」そう言われても仕方がありません。

・確かに、そんな古ぼけたCD、そんなに一生懸命探さなくてもよいのではないか、そう思う方の方が普通です。
しかしです。この私にとっては、この中古のCDは極めて大事な一枚なのです。

・帰りの車で、助手席に置いてある、その500円のCDをちらっと見る度に思いました。
「いやあ、ついに見つけた・・。このCD、なんだか、ルカの福音書に出てくる、銀貨一枚みたいだなあ・・」

④聖書の譬話しに戻りますが・・きょうのこの聖書箇所から、神さまの、愛に満ちたすばらしいメッセージを読み取ってゆくためには、この譬え話の「意外性」に気が付かなければなりません。

・ここで彼女が無くしてしまったのは、たかが銀貨一枚でした。 しかし、この女性は、意外にも家中を探し始めたのです。後で出てくるだろう・・などと、気楽に考えなかったのです。

・やっと見つけたときも、彼女は意外な行動をとりました。 まるで、いなくなった我が子が見つかったかのように喜び・・友人や近所の人たちを集めて、「一緒に喜んでください」と言うのでした。
この意外性、ここに神さまのメッセージがあるのです。

・それは、神さまは、思いもよらぬ、熱い思いを持って、私たち一人一人を見つめておられる、と、ここで語られていることです。

・万が一、自分から離れて、どこかに行ってしまったとしたら、もう大変です。 神さまは必死に私たちを 一人一人を捜し始める・・神さまは、あなたのことを、このような思いで熱く見つめておられる・・、そのように、主イエス・キリストは語られたのでした。
〇一方、私たちは・・私たち自身のことを、日頃、どのように思っているのでしょうか・・。

・先日、インターネットで、若者の意識調査について調べておりました時、驚いたことが一つありました。
 それは、諸外国と比べて、日本の若者が極端に低い、そういう項目があったからです。

・この調査によりますと、日本の多くの若者が自分に満足していないというのです。
もっと分かり易く言いますと、自分のことが好きではない、と思っている人が非常に多いという結果です。
 自分など価値がない、自分などいてもいなくてもいい・・そのように自己否定している若者がとても多いということです。

・勿論、一人一人、違いはあると思いますが・・総じて、私たちは、それほど自分自身のことを熱い思いで見つめてはいない・・そういう方の方が多いかもしれません。

・では年配の方々はどうか、といいますと・・これは、私の牧会経験から肌身で感じることですが・・
ご年配の方々から、こういう発言を時々聞くことがあります。
「私はいつもまわりに迷惑をかけないようにしています。もう何にも役に立たないですから・・」

・世間一般の話ではありません。 自己否定は神さまの御心ではない、と教えられている教会の中でさえ、残念ながら、自己否定の言葉が時々聞かれる・・これは、悲しい事ではないでしょうか・・。
 
・ここに神さまが私たちを見つめている、そのまなざしと・・、私たちが私たち自身を見つめているまなざしとのずれがあります・・。

・そうです。神さまの、私たち一人一人へのまなざしは・・私たちが自分自身を見つめているそのまなざしとは、大きく、大きく違っている・・神さまは正に、信じられない熱い愛のまなざしをもって私たち一人一人を見つめておられる・・これがこの譬え話で語られているメッセージなのです。

➄では、なぜ、それほどまでに熱く、私たち一人一人をみつめておられるのでしょうか・・。

・旧約聖書のイザヤ書43章に注目すべき言葉があるので紹介したいと思います。43章1節の後半です。
 「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。 わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」

・神さまが、私たち一人一人を・・私たちの想定をはるかに超えて、熱く、熱く探しておられるその理由、それは・・わたしたち一人一人が・・「神のもの」だから・・
聖書は、このように語っている訳です。 → 「わたしは、あなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」
 これは、神さまの、私たち一人一人への愛の告白です。
〇最後に、この譬話が、こういう言葉で結ばれていることを見て終わりたいと思います。

・10節「あなたがたに言います。それと同じ様に、一人の罪人が、悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。

・天において、喜びがわき起こる・・ 主イエス・キリストは、こう語っておられるわけです。
「あなたが、救われたら・・ あなたが、神さまの元に帰ってきたら・・神さまの喜びが・・天地に響き渡る・・」
と言われるのです。

・そうです。 主イエスキリストによれば・・父なる神さまは、私たち一人一人を、
熱く、熱く、探しておられる・・いわば、超、モノズキな方なのです。
これほどまでに熱く、私たち一人一人は見つめられている、というのです・・。

・私は、その熱い眼差しの中にあって・・今週も、そのまなざしを浴びながら、一歩一歩前進してゆきたい
そう思います。

(上のバーから聞けない方は青いボタンから)
iPhone