「彼は我に返って」_北澤牧師

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主イエス・キリストの語られた6つの譬え話 その3
ルカの福音書15章11節~24節 

 イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。
 弟の方が父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい。』と言った。
それで、父は財産を二人に分けてやった。
 それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてものをまとめて遠い国に旅立った。
 そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。
 何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢餓が起こり、彼は食べることにも困り始めた。
 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。
 彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、誰も彼に与えてはくれなかった。
 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇人が、なんと大勢いることか。
 それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。
そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください。」』   
 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。息子は父に言った。
『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はあり
ません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来た、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いてきて屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』
 こうして彼らは祝宴を始めた。

①6月から皆さんと、主イエス・キリストの口から語られた譬え話を読んで来ましたが、きょうはその三回目です。

・先ずは早速、この譬え話の、その内容を簡単にふりかえってみたいと思います。

・ある所に、裕福で、しっかりとした家庭に、二人の息子がいました。

・ある日、その次男が、こんな風に思ったのです。
「あの立派なお父さんのもとで・・そのお父さんに従ってずっと生きてきた・・それも悪くはない
けれども・・僕は、やっぱり、もっと自分の思い通りに生きてみたい。 そうだこれからは、
自分一人で、自由に生きてゆこう!」

・こう思ったこの次男は、お父さんにこう言い出します。→12節「お父さん。財産のうち私のいただく分を今ください。」 これを聞いた父親は財産を二人に分けてやるのでした。

・こうして、次男は、その父にもらったかなりのお金をもって、一人遠い国に旅立っていきました。
②それからの彼は、もう、父親の管理下ではなく・・同時に、父親に守られることもなく・・
父親のアドバイスもなく・・ 自分の思うままに生きてくのでした。 
食べたいものを食べ、飲みたいものを飲み、したいことをしていったのでした・・。

・ところが・・時がたち、気が付くと・・彼は、いつも間にか湯水のようにその財産を使い果たし、そして、どん底の生活をしなければならなくなっていたのです。

・このとき、彼がようやくありつけた仕事は、ブタの世話という仕事でした。
当時この仕事は、誰もが、「汚(けが)れた仕事」と考えていて、やり手がありませんでした。

・彼は、その仕事中、えさにむしゃぶりつくブタたちの姿を見ているうちに、「ああ、ブタはいいなあ食べ物があって、僕もそのえさを食べてみたい・・」ふとそんなことを思ってしまうのでした。

・しかしここまで落ちたとき、彼は、そこでようやく、「そうだ!父のところに帰ろう!」そう、決心するのでした。

・勿論、実家に帰って父の息子に戻る、そんなことは虫のいい話です。彼は思います。「もう、息子としては受け入れてくれないにきまっている。でも雇い人の一人くらいにはしてくれるかもしれない」 

・「帰ったら、殴られるかもしれない・・いや、どんなに、叱られてもいい! 今までの生き方は間違っていたのだ。兎に角、父のところに帰ろう!」彼はそう決心して実家に向かって歩いて行くのでした。

・するとどうでしょう。 彼が家に向かってゆく途中・・そこに予想外の出来事が待っていたのです。 そこはまだまだ、家までは遠かったのですけれども、何と!あの父親が、こちらに走ってくるではありませんか・・

・そして父は、走り寄り、彼を抱き、口づけしてやめないのでした。 そうです。彼の父親は、この息子が帰ってきたことを信じられないほど喜んでくれたのです。

・これは、この息子にとって予想外でした。 父親がこれ程迄に自分の帰ってくるのを待っていたとは・・まったく彼は予想もしていなかったのです。

・この後この父親は、帰って来たこの息子の為に大宴会を催します。
この次男は、この父親の自分への熱い熱い心の内を始めて知ることになったのでした。
この譬え話は、このようなあらすじです・・。

・実は、この話はまだ続きがあるのですが・・今朝の礼拝ではここまでにいたします。
 続きは次回に取っておきたいと思います。
③ところで、もうほとんどの方がお気づきになっておられると思いますが・・
ここに、出てくる父親とは、世界・・いや、全存在を創造され、また私達一人一人をも創造された方。
またその私達一人一人を、熱く熱く、愛しておられる、その父なる神さまの姿です。
またここにいる息子とは、他でもありません。 私たち自身のことです。

・どうでしょうか皆さん。 私たちの、生まれながらのその姿は、この息子のようではないでしょうか・・

・私たちも誰も、且つては、心の中で、「神さまなど、別に信じたくないはない。ましてや、神に従って生きる・・そんな堅苦しい生き方はやめておいた方がいい・・」そういう思いを、心のどこかに持ちながら生きていたのではないでしょうか・・。

・私たちは・・自分自身の、その、心の奥を見つめるということは、なかなか難しいことですけれども・・

・しかし、心を、本当に鎮めて、正直になって、自分の心の中を見つめてゆくときに・・
その自分の、その本心が、どういうものなのか・・少しづつ見えてまいります。

・そうです。 生まれながらの私たち・・ つまり私たちの本性は、「私は、神を信じるとか・・
神に従うとか、そういう生き方より、もっと、自分の思うとおりに生きてきたい!」
「人間は、自分の思うままに生きて行くべきなのだ!」

・こういう思いこそ、私たちの本性であるということをこの譬え話は教えているわけです。

④では、神と共に生きるという、そういう人生から離れた生き方・・つまり、神の支配など眼中になく・・自分の思うままに生きてゆく、そういう人生は、本当に自由な人生なのでしょうか・・。

・一見、神を神としない。神を恐れない。神に従って生きるのではない。己の意志、己の欲望に従って、己の自己実現と己の利得の為に生きてゆく、そういう生き方はとても自由で、力強く、すばらしい
生き方のように思います・・。しかしそれを実践してみると・・意外とそうではない。
この譬え話は、そのことを、見事に描き出しています。

・神さま抜きになれば・・自由な生き方になるはずだったのです・・。
しかし、彼は、実際はそうではなかったのでした。 自由どころか、暫くすると彼は、食べるという、最も基本的な、その自由さえも失っていったのでした・・。

・それは丁度、 金魚が、金魚鉢から飛び出したような・・そういう自由でした。
息が詰まり、自由どころか、彼の人生は大きく崩れ始めて行ったのでした・・。

⑤しかしこの彼の人生は、途中から反転します。 彼は、幸いにも、「そうだ、父の所に帰ろう!」と、どん底の生活になって、ようやくそう思ったのでした。

・すると・・彼の目の前で、目を疑うようなことが起ったのです・・。
本来ならば、父親には、追い返されるか、殴られるか・・よくても、使用人の一人くらいにしてくれるかもしれない・・そう彼は、予想していたのですが・・

・何と、彼の父親はこの息子に、大喜びで走りより、抱きしめ、口付けし・・この後、近所の人たちを呼んで大宴会を催したというのです。

・そうです。父は待っていたのです。 いつ帰ってくるのか、きょうだろうか・・いや、明日だろうか・・ 父は、毎日のように、門のところまで行っては戻ってくるのでした・・。

・しかしついに、父親は我慢が出来ず、この息子を探し始めたのでした・・。 ちょうど、そこに、息子が帰って来たのでした・・。

・私が感動するのは、この父親の、この姿、この苦しみです。 この父親、つまり神さまの姿です。
私たちの帰りを待って、待って、待って、苦しんでおられる、この父なる神さまの姿です。

⑥このように・・この息子は、神さまから離れた人生であったのですが、途中で反転し・・
その人生は、神と共に生きる、勝利の人生へと、大逆転となったのですが・・

・では、なぜ、この息子は父の元に帰ろう!と思ったのかです・・。
彼が反転したとき、彼の心の中で、どういうことが起っていたのでしょうか・・。

・17節をみますと・・・「彼は、我にかえって・・」とあります。
これが、流れを変えたポイントでした。

・「われにかえる」とはどういうことでしょうか・・広辞苑を調べてみますと、「われにかえる」とは、「意識を取り戻す」「気が付く」「蘇生する」と書いてありました。

・そうです・・この時、この息子は、「人間としての意識」を取り戻したわけです。

・「そうだ! 僕はぶたではないのだ! 人間なのだ!・・あのお父さんの息子なのだ!」
そう思ったわけです。

・人間としての意識を取り戻すということは・・「人間は、何のために生きているのか・・その人生の目的は何か・・その人生の意味は何か・・」そういうことを考え始めたということです。
・「人はどう生きるべきなのだろうか・・」いやその前に、そもそも、「人間とは何であろうか・・」
そういう人生の根幹に関わることを、静かに考えられる、その意識が戻ったわけです。

⑦私は、教会の礼拝は、人が「われにかえる」ところであると思うのです。

・礼拝で・・聖書から神さまからのメッセージが語られます・・聖書の言葉、それは神さまからの愛の叫びです。

・すると、その、神さまからの叫びを聞いて・・会衆一人一人が、われにかえってゆく・・・
眠りから覚めて、人間としての、意識を取り戻してゆく・・

・礼拝とは・・そういう、私たちが、正に、「われに返る」ときであると私は思うのです。

・しかしある方は、「私はせっかく、そこで目が覚め、意識が戻っても・・また月曜あたりからまた眠りに入ってしまうのです。」そうおっしゃるかもしれません。
(このようにおっしゃる方は、実は大抵、謙遜で心砕かれたすばらしい器です。)

・しかし、目が覚めてもまた寝てしまう。 このことは、全然問題無いと私は思います。  
人は、起きている時が有り、眠っているときが有る。この方が正常です。
ずっと眠ったまま・・つまり、昏睡状態に陥ってしまうのでなければ、問題はまったくありません。

礼拝で・・われに返る。人間の意識に戻る。そして、また眠ってしまう・・。
でもまた次の礼拝で・・私たちは、また我に返ってゆけばいいわけです。
そこに私たちが、毎週、礼拝に集められている意味があるわけです。

〇私には、今朝、この主イエスが語られた、この息子の譬え話の中からも・・
 私たちを、われに返してくれる・・人間としての意識を回復してくれる、その神さまの愛の叫びが、聞こえくるのです。

・「早く帰って来て下さい!早く帰って来て下さい!!早く帰って来て下さい!!!」
 そして、わたし共に、豊かに生きる人になりましょう! この神さまの叫びです。

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