「その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。」(エレミヤ23章5節)

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今回は、エレミヤ書から15回目のメッセージです。前回は、「朝ごとに、正しいさばきを行ない。」(エレミヤ21章12節)とのテーマで語りました。神の願われるリーダーの歩みは明白です。全て上に立つリーダーが、自己中心的な歩みをやめて、民の幸福を願っていく。とくに貧しい人を大切にしていく。そして、他民族にも同様に愛を注ぐ。その時、彼も、その民も祝福されるのです。22章3、4節にも、「主はこう仰せられる。公義と正義を行い、かすめられている者を、しいたげる者の手から救い出せ。在留異国人、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。また罪のない者の血をこの所に流してはならない。もし、あなたがたがこのことばを忠実に行なうなら、ダビデの王座に着いている王たちは、車や馬に乗り、彼らも、その家来、その民も、この家の門のうちに入ることができよう。」とあります。正しいさばきを行なう、不正を排除する。困難な状況に置かれている人たちを助けていく。そのような姿勢を持つリーダーを神は求めておられるのです。正しい選択ができる指導者は多くの祝福をもたらすことができるのです。私たち信仰者は、それぞれのリーダーが神の約束や恵みから離れないで歩めるように祈っていく者でありたいです。

今日は、エレミヤ書23章に入ります。神から離れてしまった王たちへの厳しい言葉がまず述べられています。1、2節には、「あぁ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らす牧者たち。主の御告げ。それ故、イスラエルの神、主は、この民を牧する牧者たちについて、こう仰せられる。あなたがたは、わたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。見よ、わたしは、あなたがたの悪い行ないを罰する。主の御告げ。」とあります。ここでの牧者たちとは、政治的指導者たちを指しています。この政治家たちは、群れを散らし、人々を顧みないと表現されています。これらの指導者たちに対して、あなたがたの悪い行ないを罰すると、神が語っておられます。

前回学びましたが、ヨシヤ王がなくなってから、彼の子供たちが王になり、エジプトやバビロンによって自らの政策を大きく変えることとなります。残念ながら、誰一人ヨシヤのように真実に神に立ち返り、神の助けを求めようとした王はいなかったようです。むしろエジプトやバビロンに貢物を納めるために、民を圧迫し、民を大切にする政策をとらなかったようです。それらの政治的背景が、今日の聖書箇所では、私の牧場の群を滅ぼし散らす牧者たちと表現されています。彼らは、わたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかったと表現されています。

22章の15節の後半からは、彼らの父であるヨシヤ王に関する言及が出てきます。「あなたの父は飲み食いしたが、公義と正義を行ったではないか。そのとき、彼は幸福だった。」と書かれています。続く16節には、「彼はしいたげられた人、貧しい人の訴えをさばき、そのとき、彼は幸福だった。」とあります。この言及は、彼らの父であったヨシア王の治世の政策を表現しています。正しい生き方を選んだヨシヤ王は幸福だったとの表現です。それは民の側に立った政策を選んだからです。17節には、「しかし、あなたの目と心とは、自分の利得だけに向けられ、罪のない者の血を流し、しいたげと暴虐を行うだけだ。」と書かれています。ヨシヤ王の子供たちは、王に選ばれると、神から離れ、民を自分の利益のために用いる、そのような政策を取って行ったようです。それらのことをエレミヤは、私の牧場の群れを滅ぼし尽くし、散らす牧者たちと表現しています。神の裁きは確かです。23章2節の箇所を注意して見てください。私はあなたがたの悪い行いを罰する、とあります。今の世界を見る時に、上に立つリーダーが何を見て政治を行なっているのか、問われていると私は思います。民の幸せを願うのか、自らの利得のために民を圧迫するのか、そのような選択を一人一人のリーダーはしなければならないのです。民を愛さないリーダーを神は裁かれます。クリスチャンはこの箇所から、神は正しい裁きをすべてのリーダー達にいつかなされる、その確信を持つべきであると思います。

神の裁きは確かです。22章の30節の後半には、「彼の子孫のうちひとりも、ダビデの王座について、栄え、再びユダを治める者はいないからだ。」とあります。ダビデの子孫であった南ユダの王は神の裁きを受け、バビロンに連れて行かれ、その王権は終わるのです。実に悲しいことです。

ところが23章の3節から8節までには、新たな希望が語られています。神は新しい牧者たちを起こし、新しい時代が起こると言う預言が書かれています。散らされた民はもう一度集められるのです。新たな牧者たちが起こり、彼らはもう一度回復の道を歩むのです。バビロンに捕囚とされた民は、もう一度エルサレムに戻ってきて、希望のうちに生きるようになるのです。エレミヤは約70年の後に、民はバビロンから解放されることを預言しています。参照25章11、12節。

それでは、23章5節にある、ダビデの正しい若枝について見てみましょう。もちろん、ダビデの正しい若枝とは、ダビデの子孫として生まれる私たちの救い主イエスを指している言葉です。4節には、「わたしは彼らの上に牧者たちを立て、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おののくことなく、失われることもない。」と書かれています。牧者たちとは、神を信じる新たなリーダーたちのことです。新しいリーダーが起こされるのです。イスラエルの民は捕囚とされますが、70年近い捕囚の年月の中で、もう一度自分たちの信仰を回復して、エルサレムに戻ってくることとなります。その際、用いられた者たちは、エズラであり、ネヘミヤです。新しいリーダーが立てられて、新たな時代が来るのです。そして何よりも5、6節で「その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、主は私たちの正義と呼ばれよう。」と書かれています。このダビデの正しい若枝の預言は、イエス・キリストを指しています。ちょうどイエスを中心にして、その中から多くのリーダーが起こり、イエスの御心を成す者たちが新しい時代を起こして行く、そのような内容を含む文脈です。

イエスに出会って、変えられ、自らを神と共に生きる、神の栄光のために生きる、そして、キリストが愛されたように人を愛する、そのような思いを持つリーダーが起こされてゆくのです。キリストを信じるリーダーが多く起こされるように祈っていきたいです。特に、この混沌としている社会の中で、イエスこそ正しい若枝である、そう信じる人たちが多く起こされるように。いつかこのイエスは、この終末の時代に戻って来られ、私たちの王として、新しい時代を始め、栄えて、公義と正義をこの地上にもたらしてくださる方だからです。イザヤ4章2節には、「その日、主の若枝は、うるわしく、栄光に輝き、」とあります。この若枝であるイエスは、暗闇の中で光として輝くのです。この暗闇の世界で、光として来られる救い主を待ち望む者でありたいです。

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