「背信の子らよ。帰れ。」(エレミヤ3章22節)

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今回は、エレミヤ書から3回目のメッセージです。前回は、「主はどこにおられるのか」 (エレミヤ2章6節)とのテーマで語りました。神は民が悔い改め、立ち返る機会となるように、様々な試練や困難を与えることがあります。試練を通して私たちを、今の現実の姿に気づかせ、方向転換(悔い改め)をする機会を与えようと神は願っておられるからです。私たちも、試練に出会った時に「主はどこにおられるのか」との問いかけをしたいと思っています。一度立ち止まって、神の恵みをもう一度覚えて行きたいです。エジプトで奴隷とされたイスラエルの民が、エジプトから解放された時のように、民を助け出すことのできる神がおられるのです。神の愛、また恵みに気づいて、神を信頼する生き方を私たちも目指して行きたいです。今日は、3章に入ります。その内容はユダの民に悔い改めを迫るエレミヤの言葉です。悔い改め、神に立ち返る、その根底に神の愛があることに気づいて行きたいと思っています。それではエレミヤ書3章をお読みください。

3章6節には、「ヨシヤ王の時代に、主は私に仰せられた。あなたは、背信の女イスラエルが行なったことを見たか。彼女はすべての高い山の上、すべての茂った木の下に行って、そこで淫行を行った。」と書かれています。背信の女とは、北イスラエルのことを指しています。北イスラエルには、神に従う王が1人も現れなかったのです。そして偶像礼拝に心を奪われ、神から離れ、神の裁きにあったのです。北イスラエルはアッシリヤによって、紀元前721年に滅ぼされ、多くの民はアッシリヤに捕囚とされてしまったのです。ヨシヤ王は、宗教改革を成した王であったことを以前述べました。そして、もう一度神の民として歩んでいこうと、民に向かってチャレンジした王です。そのような王の時代に語られた内容を今日私たちは見ています。その宗教改革は真実なものとなるのか、神が民に問いかける内容です。

それでは内容を詳しく見て見ましょう。7,8節を読んでみてください。そこには、「裏切る女、妹のユダもこれを見た。」とあります。妹のユダとは南ユダの事であり、背信の女とは、北イスラエルのことです。ユダの民は、北イスラエルの失敗から学ぶことができたはずです。ところが妹のユダは、失敗から学ぼうともせず、また、神を恐れず自分も同じような偶像礼拝を行っていると神は語りかけています。10節には、「このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心を尽くしてわたしに帰らず、ただ偽っていたにすぎなかった。」とあります。ただ偽っていたとは、実に厳しい言葉です。ヨシヤ王は別にしても、宗教改革に本気で取り組もうとしない民の罪がここで明らかにされています。9節には、「彼女(南ユダ)は、自分の淫行を軽く見て、国を汚し、石や木と貫通した。」とあります。北イスラエルの現実を見ながらも、自らを変えようとせず、偶像礼拝を続けている南ユダに対する神のするどい指摘です。

神様は罪を指摘しますが、同時に民が罪を悔いて神に戻ってくることを願っておられます。ちょうどそれはあの放蕩息子が父なる神の愛に気づいて、父に戻る姿と似ています。12、13節には、北イスラエルの民に対して、もう一度戻って来なさいとのメッセージが語られます。「背信の女イスラエル。帰れ。わたしはあなたをしからない。わたしは恵み深いから。・・・わたしは、いつまでも怒っていない。ただ、あなたは自分の咎を知れ。」と。南ユダは、外面的には宗教改革をなそうとした民です。しかし、それも一時的で、ヨシヤ王の治世の後には、偶像礼拝をする民に後戻りしてしまうのです。11節には、北イスラエルの方が南ユダよりも正しかったとさえ書かれています。

14節から18節には、神様は民の失敗を赦してくださり、彼らをもう一度シオンに集めてくださるとのメッセージが書かれています。14節には、「背信の子らよ。帰れ。わたしが、あなたがたの夫になるからだ。わたしはあなたがたを、町からひとり、氏族からふたりを選び取り、シオンに連れて行こう。」とあります。回復の業はすでに国を失い、捕囚とされた一握りのイスラエルの民から始まるのです。ちょうどそれは、今の私たちが一人一人、キリストに出会い、一人一人が悔い改め、人生を回復して行く姿と似ています。キリストは、いつか教会の夫となられるのです。15節には、「あなたがたに、わたしの心にかなった牧者たちを与える。彼らは知識と分別をもってあなたがたを育てよう。」とあります。新しい牧者が与えられ、旧約から新約の時代へと変わって行くことになります。16節には、「彼らはもう、主の契約の箱について何も言わず、心にも留めず、思い出しもせず、調べもせず、再び作ろうともしない。」と書かれています。新しい契約の民は、旧約聖書の価値観に戻るのではありません。古い旧約の価値観から離れ、新しい価値観を持つようになるのです。エルサレムは、「主の御座」と呼ばれるとあります。神様は、イスラエルの民に向かって、終末の時、シオンが神の国の中心となり、主のご臨在がある所に変えられることを預言しています。さらに彼らの悪いかたくなな心が変えられ、そして、ユダの家はイスラエルの家と一緒になり、・・・帰って来る。と書かれています。新しい神のご臨在の理解が始まるのです。分裂した民が一つとされて行くのです。そして、神のもとに帰ってくるのです。その姿をエレミヤは預言しています。

22節で、「背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。」と神が民に語りかけています。民に悔い改めを迫る今日の箇所には、帰れ、その言葉が何度も使われています。ユダの民もイスラエルの民も神のところに帰るのです。そこには赦しがあり、癒しがあるからです。私たちも、神の大きな愛を信じて神のもとに帰る者でありたいです。失敗に留まるのではなく、自分や他者を裁くのでもなく、神のもとに帰る者でありたいと願っています。そして、絶えず、「今、私たちはあなたのもとにまいります。あなたこそ、私たちの神、主だからです。」との信仰の告白をしてまいりましょう。

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