「イエスの権威」(マルコ1章21節~29節)

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私が高校生の時に、皆が恐れる怖い先生がいました。アング先生というんですが、とどろきわたる大きな声、めったに笑わない険しい顔、そして、鞭(むち)として使う細長い棒をどこに行くにも持っていて、生徒が何か悪いことをするとピシッと叩くんです。先生が通る時は、やんちゃな生徒でも怖くて縮こまってしまうほどでした。先生の授業では誰も小さな声一つ出さず、居眠りする生徒も一人もいませんでした。アング先生は学校の規律を取り仕切る責任者でした。ですから私は「権威」という言葉を聞くと、このアング先生のことを思い出します。

今日の箇所では、イエスは権威をもって教え、そして悪霊に打ち勝つ力を持っていた方として描かれています。今日の箇所を読む前に、まずお祈りしましょう。

(マルコの福音書1章21節~28節を読む)

 

〈イエスの権威、アイデンティティ、使命〉

もしイエスが私たちの教会に来てくださったら、どんなふうに宣教メッセージをお語りになるか想像できますか。イエスの宣教の内容やそのスタイルについて、マルコは今日の箇所で何も書いていません。でもそこにいた聴衆の反応については伝えています。その日、会堂に来ていた人々によれば、イエスは新しい教えを権威をもって教えたとあります。この権威とは一体何でしょうか。

マルコ1章22節によると、他の律法学者が持っていないような権威をイエスは持っていたと、人々は感じたようです。他の学者たちは他の権威を引用しました。例えば、「これはモーセの教えですが…」とか「何とかという律法学者によれば、この箇所はこのように理解するのがいいでしょう」という具合です。

しかし、イエスの教え方は違いました。マタイの福音書5章の有名な山上の垂訓では、モーセの律法についてこのように教えました。「(モーセの律法では)こう言われます。しかし、私はあなたがたに言います。」他の例では、ルカの福音書4章でイザヤ書を読んだ後にイエスは言いました。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」つまり、イエスが旧約聖書から教える時は、イエスはみことばについてのご自分の解釈を述べるか、旧約聖書の預言が成就したと宣言しました。当時の律法学者と異なり、イエスは他の学者の言ったことを根拠とするのではなく、イエスご自身の権威をもって教えたのです。

イエスは、神について教える権威を示しただけでなく、更に悪霊を追い払う力も持っていました。ところで、イエスの時代には悪霊払いする人たちがいたんですよ。彼らは悪霊を払うために長くて手の込んだ儀式をしましたが、いつもうまくいくとは限りませんでした。でも、イエスは特別な儀式や呪文や道具は必要としませんでした。イエスはただ、「静まれ!出ていけ!」と言うだけでした。その日イエスが癒した男性は悪霊に対して何もできず、苦しんでいたに違いありません。しかし、

イエスを前にして、今度は悪霊が無力になる番でした。人々はイエスの力に驚きました。一体この方は誰なのかと。

イエスは一体誰なのかについて話していきたいと思います。先々月読んだように、マルコの福音書の冒頭にはイエスが神の一人子であると明確に述べられています。神の一人子であることは、イエスが洗礼を受ける場面で証明されました。マルコ1章11節で、「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と父なる神の声がしたとあります。そして今日の箇所で、イエスは人々を教える権威があったこと、そして悪霊を追い払う力があったことが書かれており、イエスが神の一人子であることは確かだとわかります。

何故、神の一人子は地上にやってきたのでしょうか。休暇で来たのでしょうか。いいえ、イエスには使命があったからです。マルコ1章15節でイエスはガリラヤで「時が満ち、神の国は近くなった。」と人々に宣べておられたのを覚えていますか。神の子の使命とは何かについて簡潔な言い方はいろいろあります。例えば、イエスは地上で神の国を築き始めるために来てくださったとか、地上に天国をもたらすためとか、地上で神の権威を打ち立てるために、などです。

〈悪魔に勝利する〉

でも神の権威はすでにこの世に勝っているのではないですか。

実はこの世は悪魔の支配の下にありました。神の一時的な許しの下にですが。

ヨハネの福音書で、この世の支配者についてイエスが述べている箇所が3つあります。この世の支配者というのは悪魔を指していると考えられます。神に反逆した霊的な存在である悪魔は、アダムとイブをそそのかし、神に逆らうように仕向けました。アダムとイブが神に信頼できなくなってから、神は人類に自由意志という賜物を与え、それによって人間が善悪を判断し、好きなように生きることを許されました。そしてその時から、神は悪魔がこの世で力を持つのを許されました。

しかし創世記3章15節にあるように神はイブに約束しました。彼女をだましたものをいずれイブの子孫がかみ砕くと。旧約聖書では、この選ばれたもの、つまり救い主には、他の表現もあります。平和の君とか、国々をゆずりの地として与えられる一人子とか、囚人に釈放を告げる方などとも表されています(イザヤ9:6、詩編2:8、イザヤ61:1)これらの約束を成就すると、イエスは宣言しました。

マルコ1章で、悪霊は「ナザレのイエス、いったいわたしたちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしにきたのでしょう。」と叫んで言いました。悪魔と悪霊たちにとって、この出来事は彼らの終わりの始まりでした。イエスの悪魔との戦いは、十字架の上でクライマックスを迎えました。

イエスの死と復活によって、私たちの罪は許され、新しい命が私たちに与えられ、そして暗闇の霊的な勢力に致命的な打撃を与えました。(へブル2:14、コロサイ2:15)

でもこれで終わりではありませんでした。キリストは悪魔に勝利し、今や地上を治める方として、父なる神の御座(みざ)の横に座しておられるけれども、神の御国は未だに完全には地上に到来していません。神の最後の審判の時まで、限定的で一時的ではありますが、悪魔の力が及んでいます。ですから、私たちの人生において苦しみや死、悪が存在しています。キリストがこの世に戻って来られる時に、天と地を一つにし、新しい天地を造る使命を完全に実現するでしょう。そして悪魔を永遠に葬り去るでしょう。今は悪魔はいくらか力を持っているかもしれませんが、必ず最後には滅ぼされます。悪魔は今は死の力を握っているかもしれません。しかし、神がイエスを死からよみがえらせたように、神は私たちの肉体もよみがえらせる時に、死に対してさえも最後に神は勝利するでしょう。その日が来るまで、私たちは私たちの王が戻って来られるのを待ちつつ、「…主よ来てください」と(Ⅰコリント16:22)祈っていきましょう。

ここまでのところをまとめます。イエスの権威はイエスが神の一人子であることを示す一つの証です。神の一人子として、神が任命した地上の王として治めることがイエスの使命です。イエスは死と復活によって、悪魔に勝利しました。

〈イエスの権威に対する私たちの応答〉

ではこのことが今日(こんにち)の私たちの人生にどう影響を与えるでしょうか。イエスの権威に対する私たちの応答について、3つお話したいと思います。

まず、私たちは、人生でイエスの権威を受け入れるか、それとも拒むかを選択することができます。イエスの権威を認めて、イエスに人生を変えていただいた、先月聖書で読んだ漁師たちのようになりますか。それとも、イエスのおっしゃることを拒絶した宗教指導者たちのようになりますか。

第二に、もしイエスを自分の人生の王として迎えるならば、私たちはイエスの教えに従って生きていくように求められます。例えば、イエスは言われます。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと。これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:12-13)

第三に、私たちは神の民として、地上に天の御国(みくに)をもたらすというイエスの使命を共に担うように召されています。これは神の新しい創造のプロセスです。神の空間である天の御国(みくに)と私たちの空間である地上が、ついに再び一つとされます。エデンの園のようにはいかないまでも、神は罪と死によって壊される以前の、創世記に記された世界を回復されるのです。黙示録では、天のエルサレムが地上に下って来るという描写があります。つまり神の空間と私たちの空間が、再びついに一つになるのです。(黙示21:2)

これは遠い未来の出来事ではありません。今起こっていることでもあるのです。私たちはキリストと共に、未来の新しい創造を今の現実にもたらすのです。新しい創造は私たちと共に始まります。使徒パウロは第二コリント5章17節で、洗礼によりキリストのうちにあるなら、その人は古い自分に死んで、「新しく造られた者です」と書いています。

神の新しい創造の民として、私たちは聖霊の助けをいただきながら暗闇に光をもたらします。神が悪に勝利したと福音を告げ知らせます。貧困、病、不公平に苦しむ人々を助けます。(マタイ25:37-40、ミカ6:8)神が全て造られたものの再生を大切にするというのであれば、私たちは環境を悪化させるのではなく、神の良き地球を大切に管理すべきです。神と共に地上に天の御国をもたらすために、私たちが今できることは、こういったことだと思います。

ですから、皆さんもおわかりのように、聖書の物語は終わっていません。イエスが教えてくださった福音は、ただ私たちが個人的に救われて、死ぬ時に天国に行くことだけを意味しているのではありません。それは物語の一部に過ぎません。より大きな物語は、神が世界を一新し、地上に神の御国(みくに)を再び建て上げようとしていることです。それでイエスは、「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」と祈りなさいと私たちに教えられたのです。

〈結び〉

今日お話したしたことは漠然(ばくぜん)としていて、理論的な感じがしたかもしれません。ですから、私の人生において神が地上にどう天の御国(みくに)をもたらしたか、最後に具体的にお話ししたいと思います。高校の時の先生で、最初に話したアング先生とは別の、ジェイコブ先生のことをお話します。

アング先生が規律を取り締まる責任者を辞めた後に引き継いだのが、ジェイコブ先生でした。ジェイコブ先生はアング先生のような威圧的な感じはないんですが、別の強さがありました。ジェイコブ先生は、親しみやすくて優しい先生でした。もちろん問題のある生徒には毅然(きぜん)とした態度で接していましたが、同時に、叱ったり教えたりする生徒との関係もちゃんと築いていました。ですからジェイコブ先生はたくさんの生徒にいい影響を与えた先生でした。

私もジェイコブ先生に影響を受けた一人です。最初に先生に会った時、私はクリスチャンになりたての頃でした。そして、実は私の家庭は崩壊しているような状況でした。そんな私にジェイコブ先生は親身に接してくれ、私の家庭の悩みに何時間も耳を傾けてくれました。先生は、クリスチャンになりたての私の相談にのってくれて、信仰に関してアドバイスをくれたり、励ましてくれました。先生は、私にとって信仰面でのお父さんと呼んでもいいと思います。先生を通して、私に対する神の愛を感じることができました。先生の心優しいアドバイスのおかげで、

神の助けにより、私は家族を許すことができました。つまり、神は私の世界に癒しと平安をもたらしてくださったんです。ですから、ジェイコブ先生のことを考える時、へりくだった一人の学校の先生を通して、キリストが私の人生に働いてくださり、私の中に新しい創造をなしてくださったと感じます。

世界を少しずつ新しくしていく使命のために、神は、どんな人でも用いることができます。世界で、また皆さんの人生で、どんなに悪いことが起きているように見えても、神がよしとされるタイミングで、神は物事を新しく建て上げるお方であることを覚えておきましょう。そして私たちはその神のみわざを見る特権にあずかっていることを喜びましょう。

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