「義のネクタイ」(マタイの福音書22章1節~14節)_ブース・リーバイ宣教師

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先ほど紹介していただいたOMFという宣教団体の宣教師のブース・リーバイと申します。今日、皆さんと礼拝ができることを心から感謝いたします。

2023年が始まり、もうすぐ3月になります。皆さんにとってどんな一年になるでしょうか。私事なのですが、今年の夏、結婚する予定です。ドキドキわくわくという気持ちですが、実は日本の結婚式で少し嫌な思い出があります。写真を見ていただくとわかると思いますが、皆さん、気付いたでしょうか。私にはちょっと間違った部分がありますが、わかりますか。私の服で他の方と違う部分があります。そうです、ネクタイです。日本では、黒いネクタイは葬式だということはわかっていたので、結婚式だったら一番明るいカラフルなネクタイがいいと自分で考えたんですね。集合写真が終わって、隣に立っている友達と話しました。「今気付いたけど、僕以外、皆同じような色のネクタイをしているんだね。おもしろいな。」と私が言ったんです。自分で言った瞬間に嫌な予感がしました。友達は答えました。「リーバイ、言おうか迷ったんだけど、実は日本の結婚式はネクタイの色が決まっているんだ。シルバーや白や灰色なんだよ。」
外国人の皆さん、是非覚えておいてください。大事なことです。友達は「誰も気にしないから大丈夫だよ。」と言ってくれたんですが、自分だけが間違った色のネクタイを締めていることが気になって、なるべく隠そうとしました。もちろん誰も何も言いませんでしたが、私は心から披露宴を楽しむことができませんでした。

何故、この話をしたかというと、クリスチャンも似たような考えや気持ちになることがあると思うからです。自分の行いではなく、神様の恵みのみによって救われることを知っていますが、何か罪を犯してしまったり、自分が罪深いと思い出させることがあると、披露宴の時の自分のような気持ちになります。教会に行って賛美を歌いますが、心から賛美することができません。自分の間違った部分を隠そうとすることもあります。お祈りはしますが、大胆に神様の御前(みまえ)に出ることができません。そして周りの友達や家族にイエス様の愛を伝えたいのですが、伝えたら「お前はこういう(悪い)ことも言ったりやったりしているじゃないか」と言われるのではと恐れてしまいます。

極端ですが、自分が神様の御国から追い出されるのではと恐れることもあるかもしれません。私はそういう時期がありました。私はクリスチャンホームで育ちましたが、自分はよいクリスチャンだから神様に愛されているというプライドが心のどこかにありました。教会に行き、食事の前に祈り、周りの友達に比べたらそんなに悪いことをしていないから、神様に愛されていると思っていました。
しかし、大学に入って、クリスチャンの友達ができて、恵みとは何かを初めて知りました。第二テモテ1章9節に「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、」とあります。その神様の恵みは自分にとってあまりにも素晴らしいもので、心が変えられました。しかしクリスチャンとして成長していく中で、自分がまだ気付いていない罪が心の中にあることに気付きました。自分の中の間違っている部分に初めて気付いて、とても恥ずかしくなり、自分は本当に救われているのだろうかと怖くなりました。そういう思いが出てくる時は、いつも聖書に戻って、本当に神様の恵みのみによって救われたことを思い出すようにしています。

今日はイエス様にある神様の無条件の愛について皆さんと一緒に話し、互いに励まされる時間になるといいと思います。ただ、選んだ箇所は一度読んだだけでは励ましなのかわからない箇所かもしれません。イエス様のたとえ話を一緒に読む中で神様の恵みを改めて、はっきりともっと深く学べることができるように願っています。
マタイ22章1節から14節まで読みます。

いろいろなことが書かれている箇所なので、全部を細かく見ることはできませんが、特に11節から13節に焦点を当てたいと思います。先ほど言ったように、この箇所を読んで「励まされた」となる人はいないと思います。ですから、この(礼服を着ていない)人が誰のことなのかをもう少し詳しく見たいと思います。

その前に1節から10節を簡単に説明します。これはイスラエルの歴史です。神様は預言者をイスラエルに何度も送って、神様を信じなさいと人々に伝えましたが、預言者は何度も無視されて、神様はバビロンやローマ帝国にイスラエルを渡したと聖書に書かれています。そしてイエス様が登場しました。イエス様が人々に教えたり、癒したりする中で、宗教指導者たちはイエス様に質問するようになりました。マタイ21章23節には「それから、イエスが宮に入って、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。『何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。』」と書いてあります。それでイエス様は自分が何者なのか、何をしているのか説明しています。全ての人が悔い改めて、神様の救いを受けられるようにイエスは教えています。そして神様の結婚式の披露宴に来るようにと招いています。

先ほどの質問に戻りますが、今日のイエスのたとえ話に出てくる「礼服を着ていない者」とは誰のことでしょうか。有名な山上の説教の中でマタイ5章20節に「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」とあります。律法学者やパリサイ人は「自分たちの義と同じでなければ、(人々は)御国に入れない」と言いたいところですが、イエス様は、「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、御国に入れません」と言っています。
マタイ21章31、32節でイエス様は答えます。「…まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」
これは驚くべき、イエス様のいわばグッドニュース、福音ですね。神様の御国に入るには、自分の義が足りているのかではなく、イエス様の義を受け入れるかどうかなのです。婚礼の礼服を来ていない人はイエス様を信じようとしない人です。何故なら、イエス様はただの預言者ではありません。イエス様は神様の約束を実現するために、この世に来ました。イザヤ61章10節「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」とあります。イエスがこの世に来られたのは、私たちが正義を着ることができるためです。

婚礼の服を着ていない人は誰かという質問には、実はもう一つの答えがあります。先ほど言ったように、一つの答えは、イエス様の救いを受け入れようとしない人のことです。そして深い意味でのもう一つの答え、礼服を着ないで婚礼の宴会から放り出された人は、イエス様です。マタイ26章1、2節「イエスは、これらの話をすべて終えると、弟子たちに言われた。
あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」実際にその通りになりました。イエスは裏切られて、捕まえられ、裁判にかけられましたが、マタイ26章63節には「しかし、イエスは黙っておられた。…」と書かれています。
また、マタイ27章12節には「しかし、祭司長、長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。」と書かれています。そして27章35節には「こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、」と書いてあります。マタイ27章45、46節には「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」
私たちが救われ、神様の御国の披露宴に入ることができるように、イエス様は黙っていてくださって、自分の衣は剥(は)がされて、ばかにされて、暗闇に放り出されました。イエス様は神様に見捨てられるまでしてくださったのです。

そして、イエス様が息を引き取られたその瞬間に、フォーカスが神殿に移ります。マタイ27章50節、51節に「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。」と書かれています。なぜ、十字架から神殿の幕に焦点が移るのでしょうか。神殿の幕は神殿の聖なる場所に誰も入れないようにするためのものでした。大祭司が一年に一回だけ入ることが許されていました。入るために着るものなどいろいろと決まりや用意するものがあって、一つでも間違って入ると死んでしまうと言われていました。

神様の清さ、正義はそれだけ恐ろしいものです。ですからパリサイ人が神様の御国に一生懸命入ろうとしても、彼らの義はまだ足りていないとイエス様は教えてくださいました。私たちは自分の罪に気付くと、教会で祈りや賛美の時に恥ずかしく思うことがあります。
実は私たちが自分で持っている正義は、色違いのネクタイのようなものではありません。それは、これまでに自分が言った、あるいはやった、あるいは思った、悪かったこと全部が誰でも見えるように書かれてあるネクタイなのです。私たちの誰もが婚礼の礼服を着ていないために暗闇に放り出された者なのです。
しかし、イエス様は私たちのために死んでくださいました。イエス様は完璧な罪のない人生を送りました。イエス様の義は完全な完璧な正義です。イエス様は私たちの罪を全て背負い、私たちを清め、義なるものにしてくださいます。

私たちは自分の罪に気付いた時に、まずはイエス様の十字架を見上げなければいけません。私たちの罪は全て十字架に釘付けにされています。それで私たちは大胆に祈ったり心から神様を賛美したり、自分の罪や誘惑と戦う力を得て、大胆にイエス様の福音、グッドニュースを伝えることができます。そうすると、私たちもイザヤと一緒にイザヤ61章10節を心から言うことができます。最後に皆でこの箇所を読みましょう。
「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」

一言祈ります。
イエス様 あなたが私たちのために十字架の上で死んでくださったことを改めて感謝します。あなたの正義のネクタイを与えてくださったことを感謝します。私たちがこの一週間、この一年間、それをいつも覚えて歩むことができるように助けてください。全てを感謝して、主イエス様の御名によって祈ります。

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