↓メッセージが聞けます。
前回のメッセージで、私は、キリストは私たちの弱さに同情することのできる大祭司であることを語りました。4章15節を再度読んでみてください。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」と書かれています。イエスは、私たちと同じように、すべての点で、試みに会われた方です。ご自分も苦しまれたので、すべての点で、私たちの弱さに同情できる、なんてすばらしい救い主なのかなと私は思っています。5章1節には、「大祭司はみな、人々の中から選ばれ、」とあります。大祭司はまず、人でなければいけない。このことをへブル書の作者は、旧約聖書の大祭司の姿から指摘します。人となられたイエスがおられた。その前提で、旧約聖書から大祭司の姿を明らかにしてまいります。人である大祭司は、罪のために、ささげ物といけにえをささげる。人々のために、神に仕えるように任命を受け、神と人との橋渡し役をする、それが、祭司の役目でもあります。「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。」(2節)と続いています。思いやることができる。この、思いやるとは、ギリシャ語(メトリオパセオー)で、自制心をもって、適度に、物事を見る思いやりを現す言葉がつかわれています。新しい2017版の聖書は、優しく接することができると訳しています。本来は、メトリオスとは、中庸の徳を意味する言葉で、適度に優しく接するとの意味です。人である大祭司は、自分を失うことなく、感情に流されることなく、適度に距離を置きながら、優しく接する、その必要性があると思います。それは、自分自身も弱さを身にまとっているので、一時的な感情に流されることなく、そのように無知な迷っている人々に接することが必要だからだと私は思います。彼は、「その弱さのゆえに、民のためだけではなく、自分のためにも、罪のためのささげものをしなければなりません。(3)」と書かれています。旧約時代の大祭司の姿は、本当にすばらしいと私は思っています。このような大祭司は、「アロンのように神に召されて任命されて受ける」とあるように、神が彼らを選ぶのです。その選びが大切です。キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、神によって選ばれたことが協調されています。ところで、キリストは王であり、預言者であり、祭司である、これが聖書の全体の教えです。イエスは、私達の弱さに同情できる方、また、私たちの弱さを思いやることのできる方です。すでに、思いやるとのギリシャ語を紹介しましたが、同情するとのギリシャ語とは異なっています。同情するとのギリシャ語は、シュンパセオーで、シュンとは「共に」を現す言葉です。パセオーとは「喜びや悲しみなどの感情」を表す動詞です。イエスこそ、私たちの喜びや悲しみを共にしてくださる方であることを示しています。イエスは私たちの感情を共にしてくださる、そのことが分かると、一人きりの寂しさから、解放されて行きます。そうイエスこそ、私たちの弱さに同情してくださる方です。
7節には、「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」とあります。私たちはこの聖句から、イエスのゲッセマネの祈りを思い起こします。大きな叫び声と涙とをもってとの表現に目が行きやすいので当然だと思います。ゲッセマネの祈りの詳細は、ヨハネ12章27節、ルカ22:42-44節を見てください。しかし、人としてこの世におられたとき、と訳されたギリシャ語の表現は、「彼の肉の日々において」と直訳すことができます。英語訳もそのようになっていますが、日々との表現に目を注いでほしいと思います。イエスが肉体を取られた日々、毎日毎日が、ゲッセマネの祈りのような日々であったとへブル書の作者は、指摘しています。私たちの人生、大変なことが起こってくるもです。しかしながら、イエスは私の感情と共にあって、一緒に喜び、涙を流してくださる方なのです。8,9節には、「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、」と書かれています。とこしえの救いを与えるイエスがおられる、この方は、私のために叫び、涙してくださる。そのことが分かる時に、苦しい行い中心の信仰から解放されていきます。日々、私たちのために祈ってくださるイエスがおられるのです。それも大きな叫びと涙を持って。私たちができること、それは、このイエスと共に生きる決断です。とこしえの救いを与えることのできるイエスに、絶えず目を注いて行きたいと願っています。