「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。」(イザヤ61:7)

 ↓メッセージが聞けます。(第一礼拝録音)
【iPhoneで聞けない方はiOSのアップデートをして下さい】

今回は、旧約聖書のイザヤ書から18回目のメッセージです。前回、「永遠の誇り、代々の喜びの町」(イザヤ60:15)とのテーマからメッセージを語りました。シオンが永遠の誇り、代々の喜びの町と変えられる時がくるのです。これらの預言は、国を失い、バビロンに捕囚とされた方々にとって、どんなに希望にあふれた言葉であったろうかと私は思います。現在、このコロナ禍の中に生きる私たち信仰者にとっても同じです。いろいろな不安の中に生きる私たち神の民を、いつか永遠の誇り、喜びの町と神は呼んでくださるのです。神に愛されている者として、神のみ言葉を信じて歩んで行きましょう。

今日も、私たちは、十字架で贖いの業をなし遂げてくださったイエスを信じて歩んでいます。毎週、礼拝に集い、イエスに精一杯の感謝をささげています。天国の希望に目を注ぎながら、2022年も皆さんと一緒に歩んで行きたいと願っています。今日は、61章を学びます。キリストがなしてくださったこと、私たち信仰者になそうとしておられることに視点を置いて学んでみたいと思います。それでは、イザヤ書61章を読んでみて下さい。

61章1-3節は、イエス・キリストが公の生涯をスタートした時に引用した箇所です。ルカ4章16-21節にその箇所が書かれていますが、21節で、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」と、イエスの言葉が書かれています。主イエスはあえて、「主の恵みの年を告げ知らせるために。」(19)で、このイザヤの箇所からの引用を止めています。イエスの公の生涯は恵みの年を始めるためであったと言えます。誰でもキリストの福音を聞き、悔い改めて福音を信じるなら、主の恵みの年が始まる、なんという大きな希望のメッセージではないかと私は思います。イエスの上に主の御霊が注がれ、福音が伝えられ、罪の赦しと解放の業が始まって行く、新しい新約の時代が始まるのです。イザヤ61章からいくつか言葉を拾ってみます。「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。」(1)。父なる神、主の御霊がイエスの上にあるのです。それは、三位一体の神の働きが始まることを意味します。良い知らせである福音がイエスの口から語られ、民の心が癒されていくのです。1節の後半には、「捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、」とあります。バビロンに捕囚とされた人々も、また心が罪の誘惑に負けてしまった人たちも、解放の業が始まるのです。2-3節には、「すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。」とあります。すべて悲しむ者はイエスによって慰めを受けるのです。そして悲しみが喜びに、また賛美に変えられる時が来るのです。これらのイザヤの預言が、イエス・キリストによって実現するのです。この約束を、私たちは信じて受け入れ、2022年を主イエスにあって主の恵みの年として行きたいと願っています。

4-9節には、贖われた民の栄光の姿が描かれています。神は信仰者を変えて、主の祭司としての働きをなさせようとご計画されたのです。回復の人生を体験させ、この世界でシオンの民を、祝福を分かちあう民にしようと神は願われたのです。4節には、「彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。」と書かれています。信仰者は神の助けにより、建て直し、復興し、一新する力が与えられて行くのです。その神の働きに多くの他国人も加わり、再建の働きが拡大していくのです。これらの言葉は、バビロン捕囚から解放された人たちよりも、広く終末の時代に生きる信仰者の働きとして理解することができます。

6節の前半には、「あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。」とあります。主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる、このみ言葉が終末の時代に実現していくのです。モーセが、出エジプト19章6節で、「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と語ったことが、終末の時代に実現するのです。前回のメッセージで私は、60章4-9節から、シオンに民と富が集まってくる様子が表現されていることを語りました。覚えておられるでしょうか。60章4節には、「彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。」と書かれています。全世界からシオンに礼拝を捧げるために信仰者たちが集まって来るのです。61章では一歩進んで、私たち信仰者は、主の祭司としての働きを成す者として神に仕えると表現されています。異邦人、外国人を礼拝の群れに加えて、私たち信仰者は神に仕えていくのです。7節には、「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」とあります。イスラエルの民も、またこの地上で生きている現在の私たちも、多くの苦しみや困難を経験します。その苦しみが何であっても、二倍のものを受ける、それが聖書の約束です。信仰者として、多くの恥や人々からの侮辱を受けるようなことがあっても、二倍のものを受ける、そしてその分け前に喜び歌う、その約束をしっかりと握って生きようではありませんか。

9節には、「彼らの子孫は国々のうちで、彼らのすえは国々の民のうちで知れ渡る。彼らを見る者はみな、彼らが主に祝福された子孫であることを認める。」と書かれています。このみ言葉は、イエスを信じる者に約束されたみ言葉であると思います。さらに、10節には、「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、・・・」と書かれています。たとえ今信仰の故に苦しむことがあっても、このみ言葉を信じて歩んで行きましょう。困難な中でも天の御国に希望を置く人生、私たちのそのような信仰こそ、次の世代に残す信仰でありたいと願っています。

(上のバーから聞けない方は青いボタンから)
iPhone