「悔い改めなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:38節)

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今日はペンテコステの礼拝です。このペンテコステの礼拝で、私たちは教会が聖霊の働きによって生まれたことを理解し、教会の誕生をお祝いしたいと思います。ペンテコステとは、ユダヤの祭りの一つで、過越しの祭りから50日後の祭りです。もともとは大麦の収穫を祝う祭りでした。それでは最初に、ペンテコステの出来事を聖書から見てみましょう。使徒の働き2章1節~4節には、聖霊が信仰者の群に臨み、一人一人が御霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおり、他国の言葉で話しだした。と書かれています。聖霊が信仰者に働き、彼らを満たし、自分の知らない他国の言葉で神をほめたたえる奇跡が起こったのです。その時この祭りのために、あらゆる国から集まってきた敬虔なユダヤ人たちが、大きな物音を聞き、イエスの弟子たちがそれぞれの国の言葉で神をほめたたえるのを聞いて、驚き、あきれてしまったとあります。11節から13節には、「あの人たちが、私たちのいろいろな国の言葉で神の大きなみわざを語るのは聞くとは。人々はみな、驚き惑って、互いにいったいこれはどうしたことか。」と言った。しかしほかに、「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだとあざける者たちもいた。」とあります。弟子たちは聖霊に満たされ、他国の言葉で語り出し、そしてそれが多くの人たちの心に驚きのメッセージを届けることとなります。

そこでペテロは、この出来事を神の預言の成就であると理解し、預言者ヨエルの御言葉を通してメッセージを語り出します。そこには、「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」(17節)と書かれています。このペンテコステの出来事を、ペテロは聖書の成就の出来事であると理解したのです。さらに、弟子たちが信じるイエスこそ、力あるわざ、不思議なわざと、あかしの奇跡を行われた方(22)であること、そして十字架につけられ、死から蘇らせた方である事を大胆に語ります。さらに、「あなたがたが、このキリストを十字架につけて殺しました。」(23)と彼らの罪を指摘します。これらの内容を聞いた群衆は、37節にあるように、心を刺され、「私たちはどうしたらよいでしょうか。」と問いかけます。ペテロは、「悔い改めなさい、そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けるでしょう。(38節)」と答えます。ペテロの言葉に応答して、多くの者たちが救われ、バプテスマを受け、その日三千人ほどが弟子に加えられたのです。「そして彼らは使徒たちの教えを固く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。(42節)」と最初の教会の姿が表現されています。これがペンテコステに起こった主な内容です。教会の誕生の物語です。

それでは、ペンテコステ以前にイエスの語られたメッセージを整理して、ヨハネの福音書からいくつか取り上げてみます。第一に、イエスの働きは父なる神の働きと同じであるとのメッセージです。実は、その視点をイエスは弟子たちに何度も語りかけています。いくつか取り上げてみます。ヨハネ5章19節には、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」6章38、39節には、「わたしが、天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。」と書かれています。10章30節には、「わたしと父とは一つです。」とあります。

さらに、8章58節には、「アブラハムが生まれる前から、私はいるのです。」と語られます。ここでは、父なる神と永遠を共にしている子なるキリストの存在が明らかにされています。

第二に、イエスはヨハネの福音書10章の中で、自らが良い牧者となって、羊のために命を捨てるとのメッセージが語られています。15節には、「また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」とあります。十字架での贖いの業を成すためにイエス・キリストは来られたのです。またイエスは、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(11:25)」と語り、復活の希望を分かちあっています。そして12章47節では、「わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」と語りかけています。私たちの救いは、イエスの十字架での死と復活を通して与えられるのです。

第三に、イエスは聖霊の働きについて多くのことを弟子たちに語られています。ヨハネの14章から、イエスは真理の御霊である聖霊のことを話し始めています。いくつか聖霊に関する箇所を見てみましょう。14章16節には、「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主はあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」26節には、「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」とあります。16章8節には、「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」13節には、「しかしその方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」14節には、「御霊はわたしの栄光を表します。」とあります。

イエスが語られてきたことを再度整理してみます。第一に父なる神のみこころをなすためにイエスは生まれたこと、そして、十字架での罪の贖いの業は父なる神のみこころであることです。第二に、良い牧者としてイエスは生き、十字架での贖いを通して信じる者に永遠の命をあたえようとされたこと。第三に、聖霊が送られ、助け主として信じる者と共に生き、信仰者を教え、信仰者の歩みを助けてくださることです。

そのような神の大きなご計画の中でこのペンテコステの出来事が起こったのです。聖霊が注がれ、弟子たちを力で満たし、ペテロの説教の中に聖霊が働き、罪を悔い改める者を起こし、信仰者の群れが起こされて行ったのです。これらの働きは、すべて聖霊の働きであるという事ができると私は思います。また、最初の教会の在り方を導いてくださったお方も聖霊であると言えると思っています。そこには、「彼らは使徒たちの教えを固く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。(42節)」と教会の姿が表現されています。教会は、聖霊の働きによって起こされ、誕生してきたと言えると思います。

今日は、最初の教会が起こされたことを学びました。今の私たちの教会も同様であると思います。聖霊は今でも、人格をもって私たちと一緒に働かれる方です。エペソ4章30節には、「神の御霊を悲しませてはいけません。」と書かれています。神のみこころにとどまり、御霊の導きの中に生きて成長するクリスチャンでありたいと願っています。

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