「一つの心と一つの道を与えてくださる神」(エレミヤ32章39節)

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 皆さん、今日は1月1日、2023年最初の礼拝です。新しい年、私たちの救い主を見上げながら、皆さんと新たな希望を持って歩んでいきたいと願っています。希望、とても美しい響きのある言葉です。今日のメッセージでもその希望を皆さんに伝えられたらと願っています。

前回のメッセージで、私は、エレミヤ31章31節の言葉を取り上げました。そこには、「見よ。その日が来る。主の御告げ。その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。」と書かれています。新しい契約、それは新約の時代が来ると言うことです。イエスの誕生によって新約の時代が始まったのです。私たちは今、新約の恵みの中にいるのです。もう一度新約の恵み、そして希望についても考えてみたいと思います。

それではエレミヤ32章に入ります。この32章は、ちょうどエルサレムがバビロンによって滅ぼされる一年前の出来事です。1節には、ユダの王ゼデキヤの第十年とありますから、紀元前587年の出来事です。エレミヤはユダ国がバビロン王の手に落ちると預言したために、ユダの王によって監禁されている、そのような状態下での神の語りかけです。6、7節には、「そのとき、エレミヤは言った。私に次のような主の言葉があった。見よ。あなたのおじシャルムの子ハナムエルが、あなたのところに来て、『アナトテにある私の畑を買ってくれ。あなたには買い戻す権利があるのだから。』と言う。」と書かれています。買い戻すとは、このような規定です。誰かが貧しさゆえに所有地を売った場合に、それを買い戻す権利、もしくは責任が、親類の者に与えられていたのです。それは神から受けた土地が見知らぬ人の手に渡ることを防ぐための規定です。困難な状況に陥った親族を助ける、そのような回復の意味を持つ規定であると言えます。アナトテはエレミヤの出身地であり、そこで彼のいとこであるハナムエルが私の畑を買ってくださいとやって来ると神はエレミヤに伝えたのです。皆さん考えてみてください。エルサレムもその周辺も、もうバビロンによって滅ぼされる、そのような危機に直面しています。ハナムエルが所有する彼の畑はもうすでにバビロンの軍隊に支配されている状況です。何の価値もないような土地を買い取ってくださいと、エレミヤのいとこがやって来て願うのです。エレミヤは、これは神の御心であることを信じて、また、約70年後にこの町がもう一度再建されることを信じて、何の価値もないような土地を銀貨を払って買い取るように導かれたのです。10節には、「すなわち、証書に署名し、それに封印し、証人を立て、はかりで銀を量り、」とあります。その土地を買い取った後で、彼はこの証書を土の器の中に入れて保存せよと自分の書記であるバルクに命じます(13節)。15節では、「まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう仰せられる。再びこの国で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるのだ、と。」とあるのです。エレミヤは神の導きを信じ、人々の前で、希望を持ってこの土地を買い取ります。

この買い戻し、新約の恵みの中にある私たちも、同様にある意味神によって買い戻された者たちであると言えると思います。罪をおかし、神から離れていた私たちを、キリストは十字架の贖いの業によって神のものとして下さったのです。私たちも神の買い戻しの恵みに生かされている者たちです。

そして16節から25節まではエレミヤの祈りが始まります。17節では、「ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできない事はありません。」と祈り始めています。そして今回の悲劇、バビロンによって南ユダ国が滅ぼされること、それは私たちの犯した罪のためであるとの祈りを捧げています。24、25節には、「ご覧ください。この町を攻め取ろうとして、塁が築かれました。この町は、剣とききんと疫病のために、攻めているカルデヤ人の手に渡されようとしています。あなたの告げられた事は成就しました。ご覧の通りです。神、主よ。あなたはこの町がカルデヤ人の手に渡されようとしているのに、私に、『銀を払ってあの畑を買い、証人を立てよ。』と仰せられます。」と祈っています。

エレミヤの祈りに対して神の答えが続いて書かれています。それが26節から41節までです。27節には、「見よ。私は、すべての肉なる者の神、主である。わたしにとってできないことが一つでもあろうか。」とあります。南ユダが滅ぼされる、それは悪を行った彼らに対する神の当然の裁きです。32節には、「それは、イスラエルの子らとユダの子らが、すなわち彼ら自身と、その王、首長、祭司、預言者が、またユダの人もエルサレムの住民も、わたしの怒りを引き起こすために行なった、すべての悪のゆえである。」とあります。そして、彼らの偶像礼拝に陥った罪深い姿が言及されています。

ところが37節から41節までは、まるで違った神の答えがあるのです。そこには、「見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。わたしは彼らを幸福にして、彼らをわたしの喜びとし、真実をもって、心を尽くし思いを尽くして、彼らをこの国に植えよう。」とあるのです。

私はこの神の答えにとても驚きます。ちょうど1枚のキャンバスに美しい姿が描かれているようです。彼らを集める。この所に帰らせる。安らかに住まわせる。捕囚から70年経ってこの御言葉が成就して参ります。彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。これは現代に生きる私たちを含む祝福の言葉です。私たちは、信仰を持ってこの言葉を受け止めることができるのです。彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与えるとありますが、一つの心それは偶像を拝んで迷ってしまう生き方ではなく、真実に神を求め、神を恐れて生きる、そのような心です。一つの道、それは一つの心を持って生きる道でもありますが、キリストを信じる信仰によって義とされると言う、新しい道でもあるのです。そうです。今の私たちの信仰告白のありようにも言及しています。彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶとありますが、とこしへの契約とは新たな契約であり、エレミヤ31章31節に言及する言葉です。新約の時代が来るのです。聖霊の時代が来るのです。神が私たちに聖霊を通して語りかけてくださる、そのような新しい時代が来るのです。ここでは、31章で約束されていた内容にもう一度言及しています。新約の時代に生きる私たちは本当に幸福な民です。神の恵みによって、感謝溢れて生きる民です。神の喜びとなる民です。私たちは神を愛します。また畏敬の念を持って、神の御言葉に聞き従います。そのような民を神はこの地に植えようと語られているのです。一枚のキャンバスに、捕囚からの解放の出来事や、キリストによる契約、また終末における民の回復などが描かれています。

もう一度確認します。神にできない事は何一つないのです。あなたも私も、イエスの十字架での苦しみを通して、罪赦され、神の前に義とされています。キリストによって、一つの心、一つの道に生きるようにされた民です。神のこれらの約束の中に生きることができるのです。私たちは神の民、神からの幸福を約束された民、私たちこそ神の喜び、その約束を力強く信じてまいりましょう。そして、神を愛して、隣人を愛する生き方を目指して、この新しい年も力強く生きて行きましょう。

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