↓メッセージが聞けます。(第一礼拝録音)
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そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄ってきた。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。
すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。
モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」
彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。
だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。
イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」
彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」
① きょうの聖書箇所は、とても内容の濃い所ですので、今月と来月の二回に分けて学んでゆきたいと思います。
・さて、この個所に記されている出来事は、当時の神殿の境内(けいだい)で起きました。
・この日、主イエスは、朝早く神殿の境内で、人々に神の御心を教えておられました。
すると突然・・後ろのドアが開いたかと思うと、どやどやと数人の男たちが入って来たのでした。
・入ってきたのは、律法学者、つまり「旧約聖書の専門家」、また、自分たちこそ正しい信仰者であると思い込んでいるパリサイ派と呼ばれていた人たちでした。
・よく見ると、彼らは一人の女の人を連れていました。 そして、彼らは、まるで物を置くかのように、その女の人を人々の真ん中に立たせた後、主イエスに向かってこう言うのでした。
・「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を、石打ちにするように私たちに命じています。 あなたは何と言われますか。」
・実は、これは、当局に主イエスを告発するための陰謀でした。当時の律法学者たちとパリサイ人たちは、イエスキリストを葬り去る、その機会を狙っていたのでした。
・ここで、もし、主イエスが、夫婦でもない者どうしがふしだらな性的関係をもったことに対し、「その程度の事はゆるしてあげなさい。」などと言えば、旧約聖書を真っ向から否定したということになります。
・またその逆に、「このような女は、やはり石打ちの刑にすべきです。」と、答えれば・・、
今度は、今まで主イエスが語ってきた。神さまのあわれみ深さ、神さまの罪の赦しの、その宣教を、完全に否定することになってしまいます。
・なにより、そのような、死刑執行を認めるような発言をしたとなれば、ローマ支配下にあった当局に訴える格好の材料となってしまいます。ローマ帝国の支配下にあったこの時代、当局の司法権を犯すような発言はけして許されない事だったからです。
・つまり、「どちらの答えになっても、その発言をきっかけに、めざわりなあのイエスを葬り去ることができる。」彼らはこのように考えていたのです。
・ここにやって来た、聖書学者とパリサイ人たちの心の中は、このような思いであったに違いありません。「よしよし、ついに追い込んだぞ。・・さあ、イエスよ。答えられるものなら答えてみよ!」
・固唾をのんで、その答えを待っていたのは、彼らだけではありません。そこにいた一般の聴衆も同じ思いであったでありましょう。
・いや、ほかでもない、ここにいる、私たちも、主イエスが何と答えるのか知りたいところです。
➁ところで、このヨハネの福音書8章のこの記事ですが・・・私は、この箇所こそ、主イエス・キリストの愛のその深さが見事に現れている。新約聖書中、最も感動させられる出来事の一つ・・そう思うのですが・・
・実は、キリスト教会は、特にカトリック教会は、このヨハネの8章の箇所について、長い間論争があったのです。そして、その論争は、なかなか決着がつきませんでした。
・いったい何を長い間論争していたのか、と言いますと・・「このヨハネ8章のこの出来事は、聖書から取り除くべきではないか・・」このように主張する聖職者たちが、昔はけっこういたからです。
・そういう主張をしていた昔のカトリック教会の聖職者たちは、表の理由として、「この聖書記事は、昔の写本にここが欠けている場合が多い」という理由をあげているのですが・・彼らの本音は違っていました。
・彼らの本音は・・「聖書に、このようなふしだらな人間を赦してゆかれた、この主の記事があると、人々に悪い影響があるのではないか・・」そういう思いだったのです。
・また、「この聖書記事は、教会に権威があるということに傷がつくのではないか」そう考えて
いる面もあったようです。
・では、このヨハネ8章に関する論争はいつまで続いたのか、といいますと・・実は、ローマ教皇が1897年に、教皇の名によって、「この記事は、聖書にとどめておくべきである。」と宣言するまでつづいたのでした。 つまり、論争が収まったのは、何と、今から、たった120年前のことだったのです。
・先日、目黒教会の会員で、元インターナショナルスクールで先生をしておられた方が英語の聖書をもってきて、私にこう聞きました。「先生、私の聖書ヨハネの福音書8章の所がないんです。どうしたのでしょう・・」
・主イエス・キリストの愛にあふれた、このヨハネ8章を抜いてしまっている聖書が、少なくとも英文の聖書にはまだあるようですね。
これは悲しいことです。 皆さんがお持ちの聖書は大丈夫でしょうか・・。
② 聖書の記事に戻りたいと思います。
・「このような女は石打ちの刑にするように、モーセは命じています。あなたは、何と言われますか?」 この質問に、イエスはどう答えるのか・・この時人々は、今か、今か、と、その答えを待っていました。
・しかし、答えはありません。 その時、主イエスは、・・そういう人々から、目をそらし・・
・指で、地面に、何かを描いておられるのでした。
・そのすぐ横で、立派な学者たち、清い行いを重んじるパリサイ人たちは・・問い続けていました。
・しかし、主イエスの視線は、その彼らのその顔にはなく・・その視線は、何かを書いておられる、そのご自分の指先にありました。
・牧師をしている者などは、ここで、主イエスが何を書いておられたのかについて・・ついつい、自分の意見を述べたくなるのですが・・。 何を書いておられたのかについて、聖書は何も語っておりません。ですから、そのことは、あまり重要ではないのでしょう。 私は、ここは、そう理解すべきだと思います。
・そういう事よりも、私たちは、ここから、主イエス・キリストの心の内をしっかりと読み取らなければならないと思います。
・主イエスキリストは、・・「あなたかも、己にはまったく汚れなどないかのように、他人の汚れを見つけ出しそして、その人の汚れを糾弾し続けている・・そのような彼らに・・大事なことに気づいてゆく、その為の「間」を、お与えになられたのでした。
・では、その、彼らが気付かなければならなかったこととは、何だったのでしょうか・・
・彼らは、「今、自分には、あたかも清さしかないかのように・・自分は、汚れとは無縁の人間であるかのように、ここにいた女の人をさばいているのですけれども・・自分ははたして、そのように人を裁く資格のある者なのだろうか・・」そのことに気付いてゆく、そのための間です。
・「自己省察」するための間です。 胸に手を当てて自分自身を深く顧みるための時間です。
・しかし、この恵みと言うべき、この大事な間を与えられた彼らでありましたが・・残念ながら、彼らは、自己省察しなかったのでした。 己を見つめることを拒んだ、と言った方がいかもしれません。
・ではなぜ、彼らは、静かに、そして謙遜に、己を顧みることが出来なかったのでしょうか・・
・それは・・彼らには「今、自分が言っている事は、これは、正しい事なのだ、という思い」・・つまり、彼らなりの正義感が強くあって、また、プライドという、固く動かしがたい思いがあって、その正義感とプライドが、己を顧みるという、謙遜さを押さえ込んでいたからにほかなり
ません。
③ では、この後、責め続けてやめない律法学者、パリサイ人に、主イエスキリストはどう対応されたかですが・・。
7節を見ますとこう書かれてあります。→「しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。」 『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。』
・この御言葉が響いたとき・・その場は、不思議な静寂に包まれました。
・さっきまで、人々は、今にも石を投げはじめるかのような勢いで、この一人の女に厳しい眼差しを向けていたのですが・・この主イエスの一言で・・彼らの心は・・その、方向が、ガラリと変わったのでした・・。
・それまで、彼らの眼差しは、只々、この女に向けられていたのですが・・彼らは、今、はじめて、他でもない、自分自身を見つめることになったのです。
・この女がどうであるか、その前に・・自分自身はどうであるのか、に心の焦点が移ったのです・・。
・どうでしょうか・・私たちは、他人の事、他人の汚れについては、いろいろと語りやすいのではないでしょうか・・ しかし、自分自身の汚れ、については・・なかなか見えないと言いましょうか・・見つめないと言いましょうか・・
・主イエスはこの時、そこにいた人々に、・・「では、自分はどうなのか、胸に手を当てて考えてみなさい。」 「それでも尚、自分には罪など、そのかけらもない、そう思ったら・・その人が、最初にこの女の人に石を投げたらよい・・」そうおっしゃっておられるわけです。
・心ある人たちには・・この御言葉が、グサリと心に刺さったのではないでしょうか・・
⑤この時、主イエスの御言葉が、心に、グサリと来た人とは、どういう人たちであったのかですが・・9節に興味深い記述があります。 →「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き・・」
・この主イエス・キリストの御言葉がグサリと来たのは・・若々しく感性が豊かであろう、若者であった・・と、思いきや・・実はそうではなかったというのです・・。意外にも、この主イエスの御言葉が心に響いたのは、若者ではなく、年長者たちであったというのです。
・では若者たちはどうであったのか、といいますと・・どうやら、彼らは始めこの御言葉の意味するところがよくわからず、きょとんとしていたようです。
・一方、年長者は、違っていました。
この時、この主イエスの御言葉に素早く感じ入ったのは、意外にも、若者ではなく、年長者たちだったのです。
・若かりし頃、私は、ここが不思議でなりませんでした。
しかし、自分が実際に年を重ねてゆきますと、少しがわかってきました。
年を重ねていった方が、感受性が豊かになる、そういうことが、意外に多いということです。
・たとえば・・桜を観て感動する、その感度は、年を重ねてゆきますと、年々深まってゆきます。
若い頃には、何にも起こらない平凡な日常はつまらなかったのですが・・そういうなんでのない日常にこそ味がある、ということも年配者になってきて感じることができるようになりました。 例をあげたらきりがありません。
・きょうの聖書のこの場面、年長者は、その年長者ならではの豊かな感性で、主イエスは、今、「己の本当の姿を見よ。」と言われているのだ、と気付き、そのみ言葉が己の心にグサリと刺さった
のだと思います。
・よく考えてみますと・・確かに若者の多くは、自分は清く正しいと、思っている、というよりも・・、
「自分は清く正し人間でありたい」・・そう強く願っています。またこれが、若者の若者らしい魅力です。 しかし、であるからこそ・・まだ・・本当の自分は見えにくくなっている・・、そういうことが、あるのではないでしょうか・・。
・とにかく、ここで年配の者たちは、若者たちより先に己の現実に気が付いたのです。
・しかし、彼らは、ここで、自分の本当の姿が見えたからといっても・・それを認めるということにはなりませんでした。無意識に己を取り繕うといいましょうか・・己のメンツを保とうとするといいましょうか・・そういうふうに心が働いたのです。
・そういうわけで、彼らは、「とにかく、これはまずいことになった・・ひとまずここにいない方がいい・・」そう思ったのです。そして、彼らは、我先にと、そこから出て行ったのでした。
・そして、最終的には、そこにいた人たち、若者を含めた全員がそこから出て行ってしまったのでした・・。
⑥ところで先程、私はカトリック教会が、この箇所を聖書から、取り除きそうになったことがあった・・そんな話をいたしましたが・・誤解しないでいただきたいのです。カトリック教会がダメだ、そんなことが言いたかったのではけしてありません。
・そうではありませんで・・このヨハネ8章の出来事は、イエスさまの愛があまりに深く大きく、偉大なために、人々はなかなかそれを受け止められなかった。 人間である私たちにとって、主イエス・キリストの愛が余りに大きかったので、教会の人たちさえも動揺してしまった。
それほど、主イエス・キリストの愛は正に人知をはるかに超えた愛であったということをお話ししたわけです。
〇多くの場合、人は、問題のある生き方をしている人を見かけると・・ついつい、その汚れを指摘したり、正しい生き方について語ったり、教えたり、そういうことをしそうになります・・。
しかし、そういう事なら、世の宗教家とか、しつけや道徳を重んじる教育者たちにも出来ることです。
・しかし、主イエス・キリストの。この人知を超えたこの愛により、ただ一方的に、罪赦された私たちにしか、けしてできないことがあると私は思うのです。
・それは、先ず、自分自身が、汚れた人に投げる石を、己の中から、すべて捨ててしまうことです。
そのような石は、体内から、すべて取り除いてしまうことです。
・そして、もし、己の汚れに気付き、その自己嫌悪感で押しつぶされそうになっている人と出会ったときには、「それでも尚、神さまは、あなたを赦してくださる方なのです。」とお伝えしてゆく・・
・このようなことは、主イエス・キリストの愛に倒されてしまった私たちだけができることではないでしょうか・・。
・そうです。私たちキリスト者は。「人を裁かない人・・というよりも・・ 人を・・裁けない者である、ということを・・よくよく思い知らされた者」ものだからです・・。
・今週も、人に石を投げる資格などまったくない・・神さまのその偉大なあわれみを証することしかできない・・このことを、深く覚えながら・・一日一日を生きてゆきたいと、思います・・。
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