種まく人のたとえ話 (マルコ4章1節~20節)

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今日は、マルコ4章のイエスのたとえ話、種をまく人を学んでいきたいと思います。イエスのたとえ話は日常生活や自然からの描写が使われています。とてもシンプルで具体的な描写だけれども、霊的な深い真実が含まれています。まずマルコ4章の1節から9節までを読んでいきましょう。

マルコ4章1節~9節

何故イエスは物事をただダイレクトに説明する代わりに、たとえ話という方法で教えられたのでしょうか。それは人々の注意を引いて、一体イエスの言っていることはどういう意味なのだろうと、人々に深く考えさせようとなさったためです。また、たとえ話で話すことで、教えが記憶に残りやすくなります。

もう一つ、これは議論を呼ぶところですが、たとえ話が人々をグループに分けたということも言えるかもしれません。それは、たとえ話に対する人々の反応がまちまちで、それぞれの心の内(うち)が明らかにされたからです。

最初のたとえ話は「種をまく人のたとえ話」です。たとえ話は、「よく聞きなさい」から始まり、「聞く耳のある者は聞きなさい」で終わります。これは、申命記6章4節にある「聞きなさい。イスラエル。」と同じで、ユダヤ人にとって、とてもなじみ深い表現です。 イエスは、私たちが物理的にただ耳で聞くのではなくて、心を変えるくらいにまで深く、御言葉を受け止めることを願っておられます。

マルコ4章9節~12節

イエスのたとえ話には他のものもあります。テーマは全て御国です。後でイエスの弟子たちはたとえ話の意味を尋ねますが、イエスの答えは理解するのが難しいです。11節でイエスは「あなたがたには、神の奥義(おくぎ)が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。」とおっしゃいます。

神が故意(こい)に不可解な話をすることで、御国から一部の人々を除外しようとしているとイエスは言っているのでしょうか。11節の奥義は原語のギリシャ語ではmysterionという言葉です。聖書では神の御計画は、時に奥義(おくぎ)と表現されます。でもそれは、知ることができないという意味で使われてはいません。

私たちは、神が明らかにすることを選択された時のみ、神の御計画の一部を知ることができます。例えば、救いの御計画は、旧約聖書の時代には明らかにされていませんでした。しかし、イエスがこの世に来てくださった時に明らかにされました。(ローマ16:25-26、コリント2:7、エペソ3:3-9)

ということは、疑いもなく、神は神の御計画を明らかにしたいとお考えです。しかし、11節の「ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです」というイエスの言葉はどういう意味でしょうか。12節を読むと少しわかりやすくなります。それは、預言者イザヤの次の言葉の引用なのです。「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。…立ち返っていやされることのないために。」イザヤ6:9-10)

預言者イザヤの時代にイスラエルの民は偶像礼拝を行い、義の道からそれてしまいました。そのイスラエルの民に対する裁きを知らせるために、神はイザヤを預言者として送っていました。神はイザヤに、イスラエルの民は神のメッセージを受け取ろうとしないだろうと警告しました。イスラエルの民は好き勝手に生きることに固執したため、神のメッセージに耳を貸さないことを選びました。しばらくの間、神はイスラエルの民が真実なものに対して耳を閉ざし、盲目となることをお許しになったのです。

何百年も後(のち)、イエスはイザヤと同じような状況に置かれていました。イスラエルの多くの民は、イエスのたとえ話の意味が理解できませんでした。何故なら、彼らは神の言葉に耳を閉ざしていたからです。聞こえているかもしれませんが、理解できないのです。民が神のもとに立ち返り、許されるために、イエスは神のメッセージを伝えたわけですが、民が耳を閉ざしていたために思っていたほどの影響を及ぼすことができませんでした。

ところで、使徒パウロはローマ人への手紙(9章、10章)の中で、このイスラエルの民のかたくなな心も神の御計画の一部だと書いています。結局、イスラエルの民がイエスを拒むことさえも、イスラエルに対する神の不思議な御計画が成就されるためのものなのでしょう。

さて、イエスのたとえ話は家の玄関口のようなものではないでしょうか。人々は玄関口に入って、中に何があるのか見に行くことができます。あるいは、ただ外にいて、中に入ったらよいものをもらえるのに、そのチャンスを逃してしまうかもしれません。そういう意味では、その玄関の扉は人々を内と外の二つのグループに分ける扉です。すでにイエスに敵対心を持っている人々は、イエスの言葉は聞こえているけれども本当に理解することはできません。彼らは外にいるままです。イエスの弟子たちのように、これらのたとえ話について質問し、時間を取って考え、イエスの教えをもっと理解したいと願う人々は、扉を開けて中に入るでしょう。

マルコ4:13~20

14節以降で、弟子たちが種まきのたとえ話について質問すると、イエスはその意味を説明します。

イエスは、このたとえ話を理解するための手がかりを与えます。それは、種が神の御言葉を表すということです。この理解がないと、解釈は変わってしまうかもしれません。このたとえ話は、ビジネス戦略とか恋愛とか子育てにも、とても役立つと思います。しかし、イエスのたとえ話はある真実を伝えることを目的としています。この種まきのたとえ話は、神のメッセージに対する人々の応答の違いについて伝えています。

まず、このたとえ話は、御国のことを伝えたられた人々をイエスが観察して、できたものでした。後(のち)に弟子たちがイエスを引き継いで宣教していくときに、彼らはイエスの観察が正しかったことを経験しながら気付いていったことでしょう。

このたとえ話で、最初の反応は興味がない、疑い、あるいは敵意というものです。現代においては、宗教に対して皮肉に感じる人や、宗教熱心な人々によって傷ついたことがある人、また宗教は自分の人生と全く関わり合いがないと単純に感じている人のことかもしれません。ですから、御言葉の種はサタンが鳥のようにやってきて、むさぼり食べてしまうので、芽を出すチャンスがありません。

二番目の反応は、興味はわくけれども短期間で、喜びも一時的で終わってしまうというものです。信じていても困難があると持ちこたえることができません。

三番目の反応はプレッシャーや楽しいことに邪魔されて、種が成長できないというものです。心配事、責任を持ってしている様々なこと、趣味とか願望とかですね。これらは全て有意義なものですが、人生の中でバランスを超えてしまうと、御言葉の効果が失われてしまいます。

最後の反応は、御言葉を受け取って、人生を変えるというものです。神が働いてくださることによって、私たちは変えられますが、私たちも神に協力するという役割を果たさなければならないと、神はお決めになりました。

適用

今日の聖書の箇所から学ぶことは何でしょうか。

  • まず、イエス様のことやクリスチャンとしての人生の考え方を話して、人々が受け入れてくれなかったとしても、がっかりしないようにしましょう。もちろん、その人が受け入れようとしなかったのは、私たちが言ったことや、したことが原因なのか、自分で振り返る必要はあるとは思います。でも、ベストを尽くしても失敗してしまったと思うことはよくあります。イエス様だってそうです。神であり人間として生きたイエス様も、多くの人々に語りましたが、受け入れられませんでした。私たちの主ご自身が人々に受け入れられなかったというなら、私たちが失敗しても驚くことではありません。

 

  • 第二に、この世のサタンの力をみくびってはいけないということ。サタンは、御言葉が人々の心に根を張る前に、御言葉を奪い取ろうと狙っています。そして、未信者が神を信じないようにするだけでなく、クリスチャンが信仰を持ち続けないように、その信仰を成長させないようにします。

パウロはエペソ人への手紙の中で、私たちの真の敵は他の人間ではなくて、「もろもろの悪霊」だと書いています(エペソ6:12) イエスは死と復活によって、サタンに打ち勝ったことを確信しましょう。よく言われることですが、クリスチャンは多くの小さい戦いに負けるかもしれないけれども、大きな戦いにはすでに勝利しています。ただ、サタンは私たちの人生を決して成長しない種のようにしてしまうことができるので、気を付けなければいけません。

今年の夏、長年知っている二人の男性がもうクリスチャンではないのを知り、がっかりと悲しい気持ちになりました。彼らは、学校の長期休みの時に、ティーンエイジャーのための聖書の学びと信仰形成のコースに参加していました。また、福音を伝える活動にも参加していました。彼らはキリスト教の弁証学も学んでいました。これは、論理的にキリスト教の信仰が正しいと主張するにはどうしたらよいかを学ぶものです。ですから、彼らは教会で活発だったんです。今では、そのうちの一人はあやしい仕事をしているようで、彼は詐欺だよと非難する人がいるくらいです。彼は、法を犯してなければ間違ってはいないんだなどと発言していました。もう一人は、神の存在を理解するのは不可能だという考えになっています。神のことや答えられない疑問について深く考えるよりは、日曜にハイキングに行く方がいいというような人になっていました。

  • 第三に、定期的に自らを吟味しようということです。パウロによる第一コリント10章12節、「ですから、立っていると思うものは、倒れないように気をつけなさい。」は、思慮深い御言葉ですね。

何故なら、サタンによる影響とは別に、私たちの周りには、神の言葉を聞くのを邪魔するものがあります。心配事やこの世の娯楽とか。周りの人々に対する義務や責任を全て放棄するべきだとか、楽しみにしていることを止(や)めるべきだということではありません。
ただ、私たちは神に対する自分の心の状態を定期的にチェックするべきだとういうことです。小さな妥協や罪は、私たちの心を少しずつかたくなにし、耳をふさぎ、盲目にするからです。

13節で、イエスは、もし種まきのたとえ話がわからなければ、他のたとえ話も理解できないだろうとおっしゃいました。私は、イエスがこのたとえ話が最も理解しやすいたとえ話だと言っているのではないと思います。そうではなくて、このたとえ話は土台のようなものだと言っていると思います。イエスのたとえ話からどれだけ恵みをいただけるかは、私たちの心の状態にかかっているのです。私たちの心は受けいれやすい状態にあり、学びたいと強く願っていますか。変えられたいという強い思いはあるでしょうか。

最後になりますが、結局、私たちが御言葉のよい聴き手となるかどうかは、神の憐みによります。弟子たちはたとえ話を理解するために、イエスの助けを必要としました。同じように、私たちが御言葉を理解し、その御言葉が心の中で成長していくためには、聖霊の助けが必要です。

人生の他の領域と一緒で、神の声に耳を傾けることは互いの協力が大事になります。私たちは神を求めるという私たちがやるべきことをします。一方、神は神のなさることをなしてくださり、私たちを助けてくださいます。そして感謝なことに、私たちが神を求めていない時でも、神は私たちを見放したりなさいません。神は種をまき続きてくださるのです。

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