パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。

 ↓メッセージが聞けます。

今回は、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」(マルコ8:15)からのメッセージです。

まず、この言葉が語られたその背景を述べ、その意味について考えていきます。マルコ8:11-21を読んでいただきたい。イエスは7つのパンを用いて4000人もの食事を提供する。7つのパンと少しの魚を取って感謝して、それを裂き、弟子たちを通して群衆に配っていく。驚くべき奇跡を弟子たちと一緒になしていく。この奇跡は、3日もイエスといっしょにいて、食べる物を持たないかわいそうな群衆のためになした神のご配慮溢れる業である。そのことを目撃し体験しながら、パンを一つしか持っていないということで、互いに議論し始めたとある(16節)。その議論の内容は書かれていないので、ぜひ想像してみてほしい。もっと持ってくればよかった。なぜひとつだけしか持ってこなかったのかと互いに責める言葉を発したのでは思う。自己中心になりやすい自分、他人を責めやすい自分があることに気付く。そのような会話の前後に、語られたイエスの言葉が今日のメッセージのテーマとなる言葉である。

さて、パリサイ人はイエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めたとある(11)。あなたが救い主なら私たちの前で奇跡をなしてごらん。そうしたら信じてあげるよ。との傲慢で詭弁的な言葉であったようである。イエスは、今の時代には、しるしは絶対に与えられません。と彼らにお答えになる。加えてルカ12:56節を読んでいただきたい。「偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。」と書かれている。しるしによらなくても神からの霊的洞察力があれば、時代を見分け、イエスこそこの時代に生まれた神の子であることがわかる。イエスの言葉、その力強い業、一つ一つがイエスこそ神の子救い主であることを示している。偽善者とは、仮面をつけて役を演じる役者を意味するようである。宗教的であるように見えても、真に神につながる宗教ではなく、形式的で、真実ないのちに生きようと彼らはしていない。仮面をつけた人生である。
このように考えてみると、パリサイ人のパン種とは、偽善的な生き方を表す言葉であることに気付く。パリサイ人の偽善的な生き方をイエスは、マタイ23章で、「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。と糾弾している。
キリストは、私たちの心をご存知である。偽善の仮面をかぶる必要もない。できること、できないことを素直に受けいれようではないか。素直に自分のありのままのの姿を認めて行こうではないか。神の愛に立ち返り、ありのままを愛してくださる神と共に歩もうではないか。と教えられる

それでは、ヘロデのパン種とは何を意味しているのだろうか?これは世俗主義的な生き方を表す言葉である。世俗的でこの世の欲や権力を求める生き方をヘロデ家の王たちはしたようである。聖書には3人のヘロデ王が出てくる。以前にそのことを述べたが、救い主が生まれたとの知らせを聞いて、救い主を力で殺そうとする王、自分の兄弟の妻を奪って、そのことを批判されると批判した預言者バプテスマのヨハネを殺した王、群衆に担がれて有頂天になり虫にかまれて亡くなった王と、それぞれに悲しい出来事が書かれている。権力やこの世の欲などにしがみついた、世俗的な生き方は決して真実な幸福をもたらさない。そのことに気付いていきたいものである。なにもないようでも、すべての物をもっているとパウロは信仰の告白をしている。
さあ、世の価値観に埋もれないで、神の価値観に立とうではないか。パウロのように、いつでもどんな状況でも神を信頼し、神の助けを信じて生きようではないか。キリストは、あなたの人生に関心を持ち、あなたの必要を豊かな富をもって満たしてくださる方であるのだから。