全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい

↓メッセージが聞けます。

今回は、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。(マルコ16:15)からのメッセージです。イエスが弟子たちに命じた世界宣教の言葉を取り上げます。まず、この言葉が書かれるに至った背景とその文脈について考えてみます。マルコの福音書は、16章の8節で、本来の本文は終わっています。9節から20節までは、2世紀になって追加されたことが、写本上の証拠から明らかにされています。マルコは、16章8節でこの福音書を終えたのか、2世紀に追加されたような内容が最初からあったのに、それが失われてしまったのかは、今の時点ではわかりません。しかしながら、この追加された部分は、2世紀になるまでに広く初代のクリスチャン達によって認められてきた内容であったことは、他の福音書からの言及によってわかります。今回、私は、この追加された箇所を、他の福音書の箇所も取り上げながら語って行きたいと思います。それでは、マルコ16章9節から20節を読んでいただきたい。

第一に、イエスの復活は弟子たちにとっても受け入れることが難しかったことが強調されています。確かに神の子と信じたイエスであれ、イエスのよみがえりの事実を受けいれるのは難しいことです。イエスご自身が、十字架につき、死に、復活することを何度も弟子たちに語られましたが、弟子たちにとってもそれを信じることができなかった。それが現実であったようです。空になったイエスの墓の理由は、復活かそれとも誰かがイエスの体を盗んで隠すか、2つに一つです。ですから、ユダヤ人の指導者たちは、イエスの弟子たちがイエスの体を盗むことを恐れて、番兵をイエスの納められた墓につけたことと、イエスの体がなくなると、イエスの弟子たちが夜盗んだことにしようと決めたことが、マタイ28:13節に書かれています。マルコは、弟子たちでさえ、復活のイエスにお会いするまでは、復活という事実を受け入れることは困難であったことをここであらためて述べています。マルコ16:9節にはマグダラのマリアにイエスは、ご自身を現わされた。と書かれている。そのことの詳細は、ヨハネ20章11-18節に書かれているので参照したい。イエスのマリヤに対するやさしい語りかけが美しく表現されている。しかし、弟子たちは、このマグダラのマリアの証言を受け入れることができなかった。続いて、ふたりの弟子がいなかのほうへ歩いていたおりに、イエスが別の姿でご自身を現わされた出来事が12節に書かれている。詳細はルカ24章13-35節を読んでほしい。特に、25-27節には、「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」と書かれている。旧約聖書そのものが、キリストに言及していることに私たちは気づいていきたいと願う。しかし、弟子たちはこの二人の証言も受け入れることができなかったことが明らかにされている。実際は、マリヤも二人の弟子たちも復活されたキリストの語りかけがあってから、初めて復活の出来事を理解することになる。

第二に、14節で、11人の弟子たちに現われて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった、と書かれている。ここで、イエスが弟子たちに出会われた事実が明らかにされている。ここでは、イエスは弟子たちのかたくなな心をお責めになったと書かれているが、マルコはそのようにとらえたのかもしれない。しかし、ヨハネ20章19-29節には、弟子たちにお会いしたイエスの言葉と、そこにいなかったトマスとイエスの会話が記録されている。わたしの大好きな箇所の一つである。イエスは弟子たちに平安があなたがたにあるように(19)、聖霊を受けなさい(22)と語りかけている。そこにいなかったトマスが心をかたくなにする姿と(25)、そのトマスを愛して、語りかけるイエスの言葉をぜひ読んでみてほしい。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。・・・信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(27)と語りかけている。復活されたイエスが、弟子たちの信仰を回復させ、平安と聖霊を弟子たちに与えていることが理解できる。弟子たちは復活されたイエスにお会し、復活の目撃者になったことが言及されていることを忘れてはいけない。

第三に、今日のテーマである世界宣教への命令である。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」と弟子たちに命じている。弟子たちは、イエスの復活の目撃者として、イエスの十字架と復活の出来事を広く伝えていく必要がある。その伝道の使命をしっかりと持って生きることが、現代に生きるクリスチャンの使命でもあると私は信じている。私たちが伝えることのできる福音とはどんな内容を含むものであろうか。キリストは私のために十字架についてくださった。私の代わりに罰を受け、死んでよみがえられた。私は、キリストを信じて罪の赦しが与えられている。そのような個人的なメッセージをまず語ることができる。イエスは、旧約聖書そのものが、救い主のことを預言していると、二人の弟子たちに語られたことを覚えておられるだろうか。旧約聖書のメッセージとは、神の創造、人の堕落、イスラエルの民族の選び、モーセの十戒、キリストの預言などである。加えて、キリストの働き、キリストの与える救い、救われた者の新たな使命、など、聖霊の導きを求めて大胆に語る経験をしようではないか。きっとあなたにしかできない神のご計画が用意されていることに気付くものと私は信じている。マルコは全世界に出て行きとある。そこには異邦人に向けての宣教がなされることが協調されている。日本人も異邦人であるが、どんな人でも、キリストを信じるなら救われるという新約の時代が始まったのだ。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。」との約束を固く握りしめて行こうではないか。マルコは信じる人々には次のようなしるしが伴いますと、パウロが実際に体験した、いくつかの出来事を述べている。パウロだけではない。初代教会はこれらのしるしを伴う業を神から与えられて、福音が進展していったことを忘れてはいけないと思う。20節には、主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた、とある。そのように、現代の私たちも、福音を宣べ伝えて行く時に、みことばに伴うしるしを実際に経験できると、私は信じています。

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
マタイ28:19,20