↓メッセージが聞けます。(第一礼拝録音)
【iPhoneで聞けない方はiOSのアップデートをして下さい】
イザヤ63章1節には、「エドムから来る者、ポツラから深紅の衣を着て来るこの者は、誰か。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」と書かれています。エルサレムを見守る見張り人が、エドムから来られるこの方を見て、この方は誰なのかと問いかけています。この文脈からは、エドムに裁きを行われる神について記されていると理解できます。エドムの国はエルサレムの東にある国ですが、イスラエルをしばしば侵略した国です。同時にエドムに象徴される全世界に対する神の裁きであると理解することができます。参照イザヤ書34章5節。
この方は、深紅の衣を着て、また威光がある方であると表現されています。そしてこの方は、正義を語り、救うに力強い者、それが私だ、と紹介されています。まさに救い主ご自身が来られて、エドムを裁いている姿が描かれています。この方の着物は赤く、その衣は酒ぶねを踏む者のようであると表現されています。その姿は、神が敵対する者を踏みつけ、彼らを裁いている様子を表現しています。また3節には、「わたしはひとりで、・・わたしと事を共にする者はいなかった。」とありますので、この裁きは神ご自身の裁きであることが強調されています。4節には、「わたしの心のうちに復讐の日があり、私の贖いの年が来たからだ。」と書かれています。神の敵に対する復讐の日、それこそ神の民にとって贖いの日となるのです。いつか私たち神の民に対して敵対する者たちを、神が裁かれる日が来るのです。6節には、「わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。」と書かれています。全世界への裁き、このことが終末の時に起こるのです。
7節からは、預言者の賛美の歌が描かれています。「私は、主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌おう。」と書き始めています。贖いの日の訪れは、主の恵みの業です。主の恵みを覚えて、イザヤは賛美の歌を主に向かってささげています。主の恵み、また主の奇しいみわざをほめたたえています。神の民に対する贖いの業、それこそ主の奇しいみわざです。この文脈の中心は豊かな恵み、豊かないつくしみです。私たちの救いも同様です。神の恵みによって救われ、私たちは生かされているのです。試練や困難の中にいる時、私たちは信仰を持って、主の恵みをほめ歌うと告白をする者でありたいです。
8節には、「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ。」「こうして、主は彼らの救い主となられた。」とあります。終末の時、私たちイエスを救い主と信じる信仰者こそ神の民、偽りのない子たちと呼ばれのです。9節には、「彼らが苦しみときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」と書かれています。私たちの苦しみを、主はともに苦しんでくださり、主の使いがその苦しみの中で私たちを救い出してくださるのです。昔からずっと、私たちは背負われ、抱いて来られたのです。これは、イスラエルがエジプトから解放された時、その背景がこの文脈に表現されています。主の愛を覚える本当に素晴らしいイザヤの祈りです。同時に神は私たちの苦しみを共にしてくださる。その信仰を持ってまいりましょう。
ところが10-14節は、イスラエルの民の歴史を思い出す祈りとなります。私たちをエジプトから救い出してくださった神はどこにおられるのか。どこにおられたのかと問いかける祈りです。10節には、「しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。」と書かれています。主の敵となってしまった、それがイザヤが生きた時の民の現実です。主の敵となり、神の裁きに会う、そのことがバビロン捕囚の出来事であることをイスラエルの民は受け入れなければならないのです。国を失いつつあるイスラエルの民にとって、その原因は自分たちの罪にあったのだと気づく必要があるのです。それは、今のこの悲しみは、自分たちの不従順の罪にあったのだと気づくことから新たな出発があるからです。
そして、15節から64章全体にかけてイザヤは、悔い改めと懇願、とりなしの祈りを続けていきます。民の祈りがイザヤを通して捧げられています。15節には、「あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるのでしょう。」と神のイスラエルへのたぎる思いを再度求めています。16節には、「まことに、あなたは私たちの父です。・・あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です。」とあります。さらに17節の後半には、「どうかお帰りください。」と祈っています。これらの祈りに65~66章で神が答えられる形でイザヤ書は終わっていきます。私たちも、イザヤのこれらの祈りを共にする者でありたいと願っています。