「私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。」(イザヤ64章8節)

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今回は、旧約聖書のイザヤ書から21回目のメッセージです。前回、「主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌おう。」(イザヤ63章7節)とのテーマからメッセージを語りました。63章6節には、「わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。」と書かれています。本当に厳しい言葉ですが、63章の前半には、全世界への裁きが起こることが預言されています。その裁きは終末の時に起こるのです。私たちの救い主イエスも、エルサレムの神殿が壊されることに言及して、世の終わりが来ること、そして救い主イエスが再臨されることを語っています。参照マタイ24:1-31。救い主イエスが戻って来られる、それは私たち信仰者にとって、喜びのメッセージです。神の民に対して敵対する者たちを、神が裁かれる日が来るのです。7節からは、預言者の賛美の歌が描かれています。「私は、主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌おう。」と書き始めています。イエスの十字架の贖いを信じる信仰者は救われる。そう信じている私たちは、主の恵みを心からほめたたえる時が来るのです。

63章15節から64章全体にかけてイザヤは、悔い改めと懇願、とりなしの祈りを続けていきます。15節には、「あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるのでしょう。」と神のイスラエルへのたぎる思いを再度求めています。16節には、「まことに、あなたは私たちの父です。・・あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です。」とあります。さらに17節の後半には、「どうかお帰りください。」と祈っています。これらの一連の祈りは64章に続いていきます。そして、65章からは神の応答が書かれています。今日は、これらのイザヤの祈りを続いて学んでみたいと思っています。それではイザヤ64章を読んでみてください。

イザヤ64章1、2節には、「あぁ、あなたが、天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。火が柴に燃えつき、火が水を沸き立たせるように、あなたの御名はあなたの敵に知られ、国々は御前で震えるでしょう。」と書かれています。神がこの地上に降りて来られ、敵を滅ぼし、神への恐れが地を覆うようにとの祈りです。3節には、「私たちが予想もしなかった恐ろしい事をあなたが行われる時、あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。」と書かれています。予想もしなかった恐ろしい事とは、神が敵対する者や、悪魔を滅ぼすことであると理解できます。4節には、「神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。」と続いています。このようにしてくださるとは、神ご自身がこの地上に現われ、悪を滅ぼし、ご自身の民を救ってくださることを意味しています。いつかこの地上で、神がご自身の敵を、そして悪を滅ぼす時が来るのです。5節の前半には、「あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行う者、あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を。」とあります。全世界の裁きが行われる時、それは神の民を迎えてくださる時です。神を信頼する者たちを、正しく生きようとする者を神は迎えてくださるのです。

ところが5節の後半から7節までは、イスラエルの民の罪が告白されています。5節の後半には、「あぁ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。」と問いかけています。6節には、「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。」とあります。律法を守ることによって義とされる、その視点からは、イスラエルの民は不十分なのです。神の民として歩み出したイスラエルの民でしたが、聖なる国民としての歩みに失敗したのです。イザヤは、私たちはみな、汚れた者のよう、私たちの義はみな、不潔な着物のようです、と表現しています。彼らの歩みを通して、旧約聖書の行いによる義には限界があることが分かります。

7節には、「しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。」と書かれています。彼らは、神に対する信頼を失ってしまったのです。それゆえ、7節後半には、「あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎のゆえに、私たちを弱められました。」とあります。神を信頼することを忘れてしまったイスラエルの民に、神は御顔を隠している。私たちは弱められていると表現しています。イザヤはバビロンによって滅ぼされようとする国の現実を直視しています。

しかし8節からは祈りの流れが変わって参ります。「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちは皆、あなたの手で作られたものです。」と祈ります。現実はどうであれ、神こそ私たちの創造主です。そして私たちを造り替えることができる方です。イザヤは、神の創造の御業に目を向けていきます。9節には、「主よ。どうかひどく怒られないでください。いつまでも、咎を覚えないでください。どうか今、私たちが皆、あなたの民であることに目を留めてください。」と祈っています。神様こそ私たちを造り変えることができる方、また、私たちの罪を赦すことができる方です。そして、ご自身の約束を堅く守られる方です。私たちはみな、神の民である。今、そのことに目を留めてくださいと、神に向かって祈っています。

そして、荒野となり、荒れ果ててしまったエルサレムの姿を見て(10、11節)、12節で「主よ。これでもあなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」と神に語りかけています。これらの祈りに対して、それでは神はどのように答えておられるのでしょうか。その神の答えが65章から続いています。それらは次週に学んでみたいと思っています。今日はもう一度、神こそ新しい創造をされる方、罪を赦し、私たちに新しい生き方を備えておられる方であることに目を向けていきたいです。私たちは粘土です。あなたこそ私たちの陶器師、私たちの人生を新しく造り変えてください、との謙虚な祈りを捧げてまいりましょう。
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