ルカの福音書7章11節~17節 「泣かなくてもよい」_北澤牧師

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① 主イエスは、ナインという町に行かれます。
この時、主イエスには、大勢の群衆が着いて来ていました。

・その一行がこの町の門の所に近づいた、丁度その時、一つの柩(ひつぎ)が担ぎ出されようとしていました。 それは、この町で母一人子一人で生きて来た、その一人息子の柩でありました。

・12節の所には、「その町の人々が大勢」と書いてあります。
そうです。この町の人たちは、この母親の悲しみの、その大きさがよくわかっていたのです。
ですから、大勢の人たちが、この母親に付き添っていたのです。 

・母親にとって、我が子の命、それは、自分の命よりも大切なもの.です。
これは言うまでもないことです。

・その、自分よりも大切な我が子が、若くして死んでしまったのです。
このような厳しい現実を、どこの母親が受け入れることができるでしょうか・・

・しかも、その青年は一人息子でした。おそらくこの母親は、この子がいたからこそ、どんなに苦しいことがあっても、その辛さに耐えて、きょうまで生きてくることができたに違いありません。 昔も今も、母一人子一人で生きてゆくとはそういうことであると思います。

・ここで聖書は、彼女のことを「やもめ」と説明していますが・・
当時、夫を失った女性が生きてゆく事は非常に困難なことでした。

・現代の日本でさえ、女性が一人で生きてゆくこと、また、母子家庭の生活は、様々な困難が伴うと聞きます。 そしてこれは、我が国の課題です。 

・ましてや、古代パレスチナの超封建的、超男中心社会で、母一人、子一人で生きてゆくいうのは実に過酷なことであったと想像できます。 

・もしかすると、この死んでしまった息子は、子どもではなく、もうすっかり成人していて、この母親と一緒に暮らしていたのかもしれません。
・この母親を守って、都会に出てゆく夢を捨てて、この小さな街でなんとか仕事を見つけ、この母親を養っていたのかもしれません。

・そのような一人息子が死んでしまったのです。この母親の衝撃はどれほどであったでしょう・・

・その彼女の衝撃、その悲しみは、少なくとも、私たちの想像をはるかに超えたものであったと思います。

② さて、私は、きょうの聖書箇所が伝えているこの出来事を、少々想像力を働かせながら、そこにいた人々の、特にこの母親の、その心の中にある、その思いについて、少しお話ししてみたのですけれども・・

・皆さんは、既にお気づきでしょうか・・。
 この出来事を記している主イエスの弟子ルカは、そういう、この母親の心の中にある、その衝撃の大きさであるとか、悲しみであるとか、町の人たちの深い同情心、そういうことにほとんど触れておりせん。

・ルカは、そういうことを抜きにして、この出来事を、非常に簡素に伝えています。
 いや、少々あっけないほどに、簡素すぎる文章で、この出来事を伝えています。なぜでしょうか?

・ご存知のように、ルカは医者でした。 しかも、ルカの福音書全体を読んでゆきますと・・
彼が、人々の心の叫びがよく聞こえる、そういう優れた人物であったということがわかります。

・しかしルカはここではあえて、そういう人間の心の叫びについて触れないようにしているのです。

・私は、そこに、ルカが伝えたかった大事な大事なメッセージがある、そう思うのです。

・もし、ルカが、そこにいた人々の心の中について、もっと詳しく記していったとしたらどうでしょうか・・ それを読む私たちは、おそらく、そこにいた人々の・・そこにいた人間たちの、その心の思いに全部の関心が行ってしまうでありましょう・・ 
ルカは、そうならないようにしたのだと思います。

・ルカは、そうではなくて・・そのような厳しい現実と向き合わなければならなかった人々を前にして、「主イエス・キリストは何をなされたのか・・何を語られたのか・・」そのことについて私たちに伝えたかったのに違いありません。

③ 13節を見ますと、「主は、その母親を見て、深く憐れみ・・」と書かれてあります。
一見何でもない、誰もが使いそうな普通の文のように感じます。

・「深く憐れみ・・」と読みますと・・私たちは、これは「イエスは、かわいそうに思った。
主はこのように情が深い方なのだ・・聖書はそのことを伝えているのだ。」このように思いやすいところです。

・しかし、この「深く憐れみ」という言葉について、聖書を研究している聖書学者の先生たちは・・、
「これはとても意味深な言葉である」と言うのです。

・これは、マタイ、マルコ、ルカの福音書、共観福音書と言われているこの3つの福音書だけに使われている限定的な言葉であると言うのです。

・またこの言葉は、「父なる神、或は救い主イエス・キリストの御心を表現する時、その限定で使われている」そういう言葉だと言うのです。

・限定的な珍しい言葉と言われれば、それがどういう所で使われているのか、誰もが調べたくなります。

・そこで、しがない伝道者の私も、それがどういう所で使われているのか、改めて、この言葉が使われている聖書箇所を調べ直してみました。 すると・・この言葉に込められたメッセージが見えてきたのです。

〇そこで、きょうは、この言葉が使われている聖書の中から、二つの箇所をとりあげて皆さんに紹介したいと思います。 最初に紹介したいのは、あの誰もが知っている「放蕩息子の譬話」と言われている聖書箇所です。

・この有名な話に出てくる、弟息子は、偉大な父親のもとで生きてきたのですが・・あるとき、彼は、「自分の思い通りに、自由に生きてみたい」そう思うようになって、父の家を飛び出し、遠くの街に行き、好き勝手に生きてみたのです。

・すると、確かに、初めのうちは、面白く楽しかったのです。 しかし、その「父から離れて、父のまなざしのないところで、自分の思いのままに生きる」という、そういう生き方は、次第に行き詰まってゆくのでした。 そして、ついには、どん詰まりになってしまいます。

・父からもらった遺産は、瞬く間になくなり、彼の生活は次第に乱れ・・気が付くと、彼は、ブタたちが餌を食べている、その前に立っているのでした。 そしてその豚が食べる、汚物のようなイナゴマメを、何と、自分も食べたい、そう思うのでした。

・その時です。 彼は、我に返って、「そうだ、父のところに帰ろう・・勿論、息子として帰るわけにはいかない。でも、帰れば、使用人のひとりにはしてもらえるかもしれない・・」
このように思った彼は、父のもとに帰る決心をし、家路を急ぐのでした。
・彼が帰ってゆく、その道で、そこはまだ父の家までは遠かったのですが・・ 誰かが、自分に向かって走って来るのが見えました。・・よく見るとそれは、何と、彼の父親であったのです。

・父親は彼を見て、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけするのでした。(ルカ15:20)

・この時の、父が、「かわいそうに思い」と訳されている言葉・・この言葉が、きょうの聖書箇所の13節に出てくる言葉、「深く憐れみ」と同じ言葉です。

〇もう一つ皆さんに紹介したいのは、皆さんがよくご存じの「よきサマリヤ人の譬話」の場面です。

・一人の旅人が、旅先で、強盗に襲われ、半殺しの目に遭ってしまい、道に倒れ込んでいました。
 色々な人がそこを通りかかったのですが、結局、皆、その人を助けようとはせず・・通り過ぎてゆくのでした。
・ところが、そこに、当時、ユダヤ人たちが軽蔑していた一人のサマリヤ人が通り掛かります。
 するとそのサマリヤ人は、この、死にそうになっていた旅人を見て、かわいそうに思い、この旅人を介抱し、町まで運び、その命を救ってゆくのでした。

・この時の傷ついた旅人を、「かわいそうに思い」と訳された言葉も、きょうの聖書箇所の13節に出てくる言葉と同じなのです。

・この二つの聖書箇所は、どちらも譬え話です。 そして、そこに出てくる「父親」、また、「サマリヤ人」これは、父なる神、或は、主イエス・キリストご自身の姿を譬えているものです。

・つまり、このルカ7章13節にある「深く憐れみ」という言葉は、父なる神、あるいは、救い主イエス・キリストにだけ使われている・・人知を超えた神のあわれみ、その決定的な愛を表した言葉であるわけなのです。

・先日ある注解書を見ていましたら、この「深く憐れみ」とか、「かわいそうに思い」と訳されているこの言葉についての解説が載っていました。今も活躍しておられるS先生の解説です。 
そこには「これは、はらわたを揺り動かされて」という意味である。と書かれてありました。
 
・何か変な解説だなあ・・と、思われる方も多いかもしれませんが・・ 実は、この言葉は動詞ですが、その元になっている名詞は、「はらわた」という意味なのです。 

・確かに、何か、変な感じですが・・よくよう考えると・・日本語でも、とても深く感銘を受けた時に、「はらわたに染みる」と表現します。

・先日、ひょんなことから、ユーチューブで辻井伸行さんのライブ録画で、ベートーベンを聞きました。  その演奏を聴いて、はらわたに染みました。
・私がここ何年かボーッと生きている間に、この方はすごいピアニストになっていたのです。
 特に、彼のベートーベンがすばらしいと思います。 
・きっと、皆さんのはらわたにも染みると思います・・(このことはさておきまして・・) 

④ 最愛の息子の柩が運び出されている時、打ちひしがれたその母親を見たときに、主イエス・キリストは、はらわたが激しく揺れ動かされ、その母親にこう伝えるのでした。・・「泣かなくてよい」

・最愛の家族が亡くなってしまった・・皆さんの中にもこういう、辛い経験をなさったことのある方がおられるかもしれません。私もそういう経験をしてきた者の一人ですが・・そういう方は、この、我が子が死んでしまった時の母親のうちのめされた心の中を痛いほどおわかりになると思います。

・このようなことは私たち人間にとっては、耐えきれるか耐えきれないか、そのぎりぎりの出来事です。死は人間にとって圧倒的な支配力をもっている。このことを思い知らされるときです。
・しかし、主イエス・キリストは、ここで、この母親に「泣かなくてよい」と言われたのでした。

・幸いな息子が死んでしまった母親に、泣かなくてよいとはどういうことなのでしょうか・・。

・誰もが思うのは・・この後、この青年は生き返った、だから、主イエスはここでこう言っているのではないか・・。ですから。この時主イエスは、「お母さん、この息子は、今、生き返えりますから、もう泣かなくてもいいのですよ」そういう意味で、主イエスは「泣かなくていい」と言われたのではないか・・こういう解釈です。

・しかしこれは、間違っているとは申しませんが・・その解釈は、余りに浅い・・そう思います。

・この「泣かなくてよい」という御言葉には、もっと普遍的な意味が込められていると私はそう思います。

・死は、私たちにとって、どうしようもない相手です。 どんなに泣き叫ぼうが、それをどうすることもできない、圧倒的な支配者のように感じます。 

・しかしここで主イエス・キリストは・・「死は、あなたがた人間にとって、圧倒的な支配者ではないのです。 こういう意味で・・泣かなくていいのです。」とこの母親に言われたのでした。

・そして、その証として・・その柩の所に行き、こう言われたのです。「若者よ。あなたに言う。起きなさい。」言われたのです。

・つまり、この「泣かなくてよい」という御言葉は・・、そこにいた母親に、そして、町の人々に・・また、柩に入ることになった青年に・・そして、同行してきた弟子たちに・・そこまで着いて来た大勢の群衆に・・そして、ここにいる私たちに・・死はあなた方を完全に支配しているのではありません。わたしは、死に勝利する権威をもっているからです。 
そういうことを語っている、正に主イエス・キリストの御言葉なのです。

⑤ ところで・・、気が付くと、私はもう40数年も教会の牧師をしてきました。
ですから、私は、きょうの聖書箇所と同じような場面にしばしば立ち会ってきました。

・牧師といいますのは、そのような悲しみがあるとき・・その悲しみから遠ざかって行くのではなく、その悲しみに向かってゆかなければならない、そういう役目があるのです。

・教会のどなたかが、「今息を引き取ろうとしている」あるいは、「今、息を引き取られた。」
このような連絡が入りますと・・その現場に、主イエス・キリストの、その名代として、向かって行かなければならない・・そういう立場です。 

・ある時は、病院の一室に・・またある時は、柩を前にした葬儀会場にです。

・このように、悲しみのところに向かってゆく・・これは、牧師をやったものでなければ、けして分かりえない、独特のプレッシャーのかかる時です。 

・「主イエス・キリストは、死に勝利されたのです。このキリストにつながっている一人一人は、死に勝利しているのです。」このことを、はっきりと伝えなければならない時だからです。

・ですから、この役目が終わり、家に帰ってくると・・まるで、魂を取られたような疲れが、どっと押し寄せてまいります。 

・この様な場面に立ち会う時、私は、先ず、このときとばかりに、御霊のお働きを必死に祈ってきました。いや、ご聖霊のお働きを必死に懇願してきた、と言った方が正確です。 

・では、なぜ、そういうときに必死に聖霊のお働きを懇願してゆくのか、と言いますと・・

・そういう時は、いわば、大祭司主イエス・キリストの名代として、そこに向かってゆく時だからです。

・これは、もう言うまでもない事ですが・・この祭司の務めを果たすためには、何より、牧師自身が、死への勝利を確信していて、その喜びが、体の中に湧き上がっている者でなければ、まったく務まらない出来事だからです。

・その様な時、私がすることがもう一つあります。 

・それは、きょうの聖書箇所のように、主イエス・キリストが死に勝利されていった聖書箇所を思い起こし、心の中で何回も、そのときの主の御言葉を、自らの心に響かせることです。

・あの死んでしまったヤイロの娘に「起きなさい」と言われたあの箇所、墓に納められたラザロに「出て来なさい」と言われたあの場面、そして、きょうのこの聖書箇所を思い起こします。 

・そうすると・・気の小さい私は、ようやく、主イエス・キリストの、いのちの勝利を、心の底から宣言する、そういう勇気が、はらわたから湧き上がって来るのです。そして、 主に代わって、「もう泣かなくてよい」 「死に勝利された方が、私たちの主なのですから」そう語ることのできる者になれるのです。

⑥ 皆さんは・・、ご自分が死んだ後、どうなってゆかれると、思っておられるでしょうか・・

・私のように、日本の文化の中で育って来た者は、「死んだらどうなるか・・そういう事は考えない方がいい」「縁起でもないから・・」つまり、思考を眠らせる文化の中て生きてきたように思います。

・しかし、聖書は、正面から語ってきます。
・きょうの聖書個所もそうです。
死後の世界で・・私たちをどのように取り扱われるのか・・ きょうの聖書箇所は、そのことを力強く示唆しています。・・これこそが、この箇所の、神さまからのメッセージです。

・それは・・私たちが、その生命を失った・・その後の世界において・・ 私たちの大祭司であり、あわれみ深い主イエス・キリストは、しかるべきときに・・こうおっしゃる。

・「あなたに言う。起きなさい。」

・私たちは、私たちの死後も、主にお委ね出来る・・私たちは、その偉大な愛を知っているのです・・。  何と幸いなことでしょうか・・

・そうです。主イエス・キリストを我が主としている、私たちにとって、死は次の世界への希望なのです。

・主イエス・キリストは、この時、母親に「泣かなくてよい」とおしゃいました。
 この同じ御言葉を、私たちもまた、今、正面から、受け入れてゆきたいと思います。

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