ルカの福音書8章40節~48節(~56節)あなたの信仰があなたを救ったのです。_北澤牧師

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① きょうの聖書箇所には、二つの出来事が同時に記されています。

・なぜ、このように二つの出来事が重ねて記されているのか、ですが・・
勿論、それは、この二つの出来事が、同時に起こったからなのですが・・

・二つの出来事が同時に記されているのには、もう一つ理由があると思います。 
それは、この二つの出来事が、いずれも、「信仰とはどのようなことなのか・・」について、考えさせられる、そういう出来事であったから・・私はそう思うのです。

・一つ目の出来事は・・会堂管理者のヤイロという人の、その娘が、病に掛かり、死にかけていた・・そこで、その父親ヤイロは、主イエスのところに急いで駆けつけ、足元にひれ伏し、自分の家に来てくれるように、と懇願していった、そういう出来事です。

・「会堂管理者」と聞くと、ある方は「ああそう、会堂の管理人ね」、そんな風に思ってしまうかも知れませんが・・この会堂管理者とは、当時の会堂、つまり、ユダヤ人の礼拝堂であるシナゴーグを管理する、その総責任者でありました。ですから、新しい新改訳聖書2017では、「会堂司」と訳されています。

・この会堂司は、長老の中から、選び出された人たちでした。つまり、このヤイロは、そのような人々から尊敬されている立場の人であった、にもかかわらず、主イエスのもとにやって来て、ひれ伏し、娘を助けてくれるように、と懇願したというのです。
 
・このことから、このヤイロという人は、社会的地位にあぐらをかいて、己の立場に固執して、偉そうに生きていた、そういう人ではなく・・、心の柔らかさと謙遜を失っていない人物であり、「このイエスというお方こそ、自分たちが待ち望んでいた救い主に違いない」そう確信していた一人であったのです。

・ところで、42節にある、「12歳ぐらいの一人娘」という表現は、何を意味しているのかといいますと・・当時のユダヤの社会では、女性は12歳頃からが結婚適齢期と考えられていましたので、この記述は、おそらく、「その娘は、そろそろ結婚してもよい年頃であった。」という意味があるのだと思います。

・私も3人の娘を育てて来たので、娘たちが年頃になった、その父親の気持ちは想像できます。
 「本当によく、ここまで育ってくれたなあ・・後は、いい人との出会いがあって・・そして、幸せな夫婦となり、幸せな家庭を築いていってくれるといいのだけれど・・」 おそらくヤイロは、そんな眼差しで愛する娘を見ていたのだと思います。

・しかし、現実は厳しく・・この娘は、今、突然の病に犯され・・死にそうになっていたのでした。
 「これからという、この子が・・こんなことになってしまった。 ああ・・何ということだ・・」
この時の父親の思いが胸に迫ります。
                                          
・父親のヤイロは、急いで主イエスの所に走ります。・・そして・・足元に、ひれ伏して・・
「家に来てくださるように」と懇願するのでした。

・ところが、彼の願いを聞いた主イエスは・・その家に向かおうとしたのですが・・なかなか前に進めません・・主イエスのことを待ちわびていた大勢の群衆が行く手を阻んだのです。

・ここで、前に進もうとする主イエスとその弟子たち、一方、この時とばかりに主イエスに迫ろうとする群衆は、ここで、もみ合い状態になってしまいます。

・弟子の誰かが、叫んでいたかもしれません・・「押さないでください、押さないでください!」
 

② さて、このもみ合う群衆の中に、12年間、当時は、決して人には言えない病、婦人病に掛かっていて出血の止まらない女性が加わっていたのです。

・44節を見ますとこうあります。「彼女は、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。」

・彼女は、群衆にまみれて・・「イエスさまの着物の房にでもさわれば・・」そう考えて、精一杯手を伸したのでした。 すると、何とか、指の先が主イエスの着物の房に届いたのです。

・するとここで、主イエスは、なぜか「わたしにさわったのは誰ですか・・」と言い出します。

・周りの人たちは、それを聞いて、「私は触っていない・・・私も触っていない・・」と言ったのですが・・ 主イエスはその声に反応しません。

・そのやり取りを聞いた弟子のペテロは、その時こう言います。
 「先生。大勢の人たちが、あなたを囲んで押し合っています。」

・私は、ここに来るといつも笑ってしまいます。 ここは新約聖書の中で、一番ユーモアに富んでいる箇所だと思います。

・ユーモアというのは、説明されるとあまり面白くなくなるのですが・・ここはどうしても、その面白さについて解説したくなります。

・この場面で、主イエス一行は、群衆に取り囲まれ、もみくちゃにされていたのです。ですから、言うまでもなく、大勢の人同士が触れ合い、もみ合っていたのです。

・ですから、ここで、主イエスが・・「わたしに触ったのはだれですか」と言い出したのは、単に物理的に、自分に触った人は誰なのか、触った犯人は誰なのか・・そういうことを聞いているわけではないのです。 

・そうことではなくて、主イエスは、このように言う事で、自ら、「私が触りました」と告白する人が、人々の前に出てくることを待っていたのです。

・しかし、弟子のペテロは、単純と言いましょうか、素朴と言いましょうか・・彼は勘違いしたのです。 「触った人ですか? いや、私も触ったし、他の者も触っています。 困りましたね・・、
誰と誰がさわったか・・それはちょっと調べてみないとわかりませんねえ。 強いて言えば・・
この辺にいた人みんなが触ったということのではないでしょうか」 

・そのように思ったのです。そして彼はこう言います。 「先生。大勢の人たちが、あなたを囲んで押し合っています。」

・しかし、そんなことは、ペテロに言われなくても、誰もわかっている事でした。

・この、まるで落語のようなやりとりがあったりして、事は大きくなってゆきました。
このような状況になって・・「これはもう、隠し切れない」そう思った女性がいました。
 それが、この婦人病にかかっていた女性だったのです。

③ なぜ、主イエスは、ここで、あえて、「私にさわったのは誰か?」と言い出され、その人が、人々の前に出てくるのを待っていたのかですが・・ これには深い訳がありました。

・当時、出血の止まらない、婦人病にかかっていることが、誰かに知れると、それは・・大変なことになりました。 殺されるということはないにしても、当時の社会は、このような女は、「汚れた女、神に呪われた女」として、人々から、人間扱いされず、一生、いわば、「汚れた者」として扱われることになるのでした・・。
                                          
・現代でも、自分が婦人病にかかっているということを、公にする人はあまりいないと思いますが・・ましてや、当時の女性たちは、心理的理由からも、社会的理由からも・・それは、絶対に人に知られてはならない事であったのです。

・ですから、彼女は、人々からは、隠れるようにして、生きて来たのです。
 そしてこの先も、ずっとずっと隠れるようにして生きて行くしかありませんでした・・。

・ですから彼女は、病気が治ること以上に、「社会の中で隠れて生きていかなければならない」
そういう縛りから、解放されなくてはなりませんでした。 

・隠れていないで、人々の前に堂々と出てきて、社会の中で活き活きと生きてゆく、そういう人にならなければ、・・そうでならなければ、彼女は本当の意味で、人としての歩みにはならなかったのです。

・そこで、46節、主イエスは、このように申します。
「だれかがわたしにさわりました。わたし自身、自分から力が出て行くのを感じました。」
・これを聞いた彼女は、もう隠し切れないと知って、震えながら御前に進み出て、ひれ伏し、イエスにさわった理由と、ただちに癒された次第を、すべての民の前で話したのでした。

・ここに、「彼女はすべての民の前で話した。」と書かれてあるのですが・・
もしかすると、この「すべての民の前で」というのは、少々オーバーな表現ではないか、そう感じる方がおられるかもしれません・・

・しかし聖書は、この公の告白ができたことにより、彼女は、その後の人生が大きく変わっていった。この告白こそ、彼女にとって必要な事であった。そのことによって、彼女はこの後、人々の中で堂々と生きてゆくことができるようになった。聖書はそのことを伝えているわけです。

④ 私は、この箇所の所に来ると、いつも、感動させられます。
 主イエス・キリストの、その愛の深さに心打たれます。何という深いご愛でしょうか・・

・そうです。もしかすると、女性は、この病の為に全財産を失っていたかもしれません。
少なくとも、この病の中に居る以上、彼女は、周りから「呪われた人間」そんな風に思われ続けなければならなかったのです。

・しかし、大昔の事ですから、良い治療方法などありません。

・この、最も弱い立場の一人であった、この女性は、今、主イエスの衣にさわるだけでも、と思い・・懸命に近づき、手を伸ばしたのでした。

・この素朴な、そして一途な思いからでてきたこの行為・・信仰というものを観念的な事として考えている人々にとっては、まったくもっておかしな行為と思われるのではないでしょうか・・
全く神学的にではない、まるでおさわり信仰のようだ、そう思えるのではないでしょうか・・

・しかし、彼女には「真実」がありました。

・主イエス・キリストは、このような真実な人に、救いの恵みを持ってお応えになられたのでした。

・私は、この後主が、この女性にかけたことばにも感銘を受けます・・。

・ここで、主は・・この人に・・「娘よ。」と呼びかけます。

・彼女は、「自分などは娘と呼ばれるような人間ではない、自分は汚れている者・・そう思い込んでいたようです。一人の女性として、生きて行くことなど・・自分には関係のないことだと思っていたようです。

・しかし、主イエスは、あえて、彼女に・・「娘よ。」と、呼びかけ・・そして、こう言われたのでした・・。 :48節「あなたの信仰があなたを救ったのです。」                                    
➄「異議あり!信仰は人の行いによってもたらされるものではない!」そう思う方がもしかしたらおられるかもしれません。

・確かに、彼女は、主イエスの着物の房にちょっと触ってみただけでした。

・彼女は・・誰にも知られないままに、ひっそりと・・イエスさまに病いを癒してもらえたら・・
それだけでいい、そう思っていた。それだけでした・・。

・また、彼女は、主イエスが、「誰かが私に触った」と言い出されたので・・「これは、大変なことになった。」と思い、隠し切れないと思って・・震えながら・・主イエスの前に平伏した、ただそれだけでした。

・旧約聖書に出てくるヨブのように、立派な信仰告白をしたのでもありませんでした。
 皆さんのように、信仰告白をし・・洗礼準備会の学びを終えて・・洗礼を受けた、というわけでもありませんでした。 

⑥ 話が聖書の記事から少し離れますが・・・
子供の頃、私たちの兄弟は、夏休みになると、必ず長野県の両親の、その実家に行きました。
 
・長野県の伊那谷にある、宮田村という所です。すごい田舎です。
そこにゆくと、優しいおばさんが待っていました。

・ある日、この優しい優しいおばさんが、私を田んぼに連れていってくれました。
 私が6歳か7歳の頃だったと思います。

・田んぼに着くと、その田んぼには緑いっぱいの稲穂がありましたが、水があまり入っていませんでした。

・その時、おばさんは・・持ってきた鍬(くわ)で、田んぼの角の所を、ちょっとだけいじりました。すると、そこから水がサーット入って来て、みるみる、その水が田んぼ全体に行き渡ったのです。

・その時の、水がきらきらと光った、なんとも美しいその田んぼの光景を、70年ほどたった今でも忘れることができません。

⑦ この12年も間、長血を患っていた女性も・・そして、会堂司のヤイロという人も・・
 彼らは、ただ、主イエスキリストに、真実な心を持って平伏していっただけでした・・。

・彼らが・・何か・・・自分の中に・・強く、立派な・・自分の信念のようなものがあったのか・・・
 というと・・彼らにはそういうものは、何もなかったようです。
・しかし、主イエス・キリストは、この女性に「あなたの信仰が、あなたを治したのです・・」
このようにおっしゃいました。

・それで、それを聞いたこの女性は「そうですか・・そうだと思ったんですよ。私の持っている信仰、その力なんですよね」などと、舞い上がるようなことを彼女は一切言っておりません。

・また、ひれ伏す会堂司ヤイロに向かって、主イエスは・・
「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われただけでした・・。 <間>

○私は・・この箇所を読み込めば、読み込むほどに・・ 信仰、というのは、・・こちら側にその要因があるとか、ないとか・・そういうことではなくて・・まったくもって、あちら側からの賜物なのだ、ということ思わされるのです。
                                          
・そうです。信仰と言いますのは・・ あの田んぼに水を引き込むために、鍬(くわ)で・・
 田んぼのふちを開けてゆくと・・ただ、それだけのことによって・・水がサーッと入ってくる・・
 そういうことなのです。

・では、信仰の場合・・水が入ってくるために、鍬(くわ)で田んぼのふちを開ける、それと同じ行為は、何なのでしょうか・・。

・その答えは・・二つの出来事に、共通している、そのことにあります。
 
・ではこの二つの出来事の共通項とは何かですが・・ 47節には「彼女は・・主イエスキリストの御前に、平伏した」とあります。41節には、ヤイロ、・・彼は「イエスの足元に平伏して」とあります。

・そうです。 信仰が私たちの内に、流れ込んでくる・・そのために必要なこと・・それは、
「主イエスキリストに真実な心を持って、平伏してゆくこと」に他ならないのです・・。

〇つまりきょうの聖書箇所は、信仰とは・・私たちが身を低くして・・真実な心で・・
主イエスキリストの御前に、ひれ伏してゆくときに・・・神さまは必ず私たちに、いのちの水を注いでくださる・・信仰とは、そういう神さまからの恵みである・・この基本中の基本について教えられる所です。

・今週も、いや、これから後すべての日々において、私たちもまた、神さまに平伏しつつ・・
神さまから信仰を与えられつつ・・御国に向かって、身を低くしつつ一歩一歩前進してゆきたい・・
と思います。

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