礼拝動画_2020.6.14

 第一礼拝の様子です。

今回は、「主がお入り用なのです。」(マルコ11:3)からのメッセージです。
マルコ11章からは、受難週の記事がはじまっていく。その最初の出来事がエルサレムへの入場である。それも馬ではなく、ろばの子に乗って入場される。旧約聖書のゼカリヤ9章9節には、「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」とある。イエスのエルサレム入場は、この旧約聖書の預言の成就として行われていく。あなたの王とは、メシア、キリストのことで、キリストが平和の王として、ろばの子に乗って入場されたことは実に興味深い。マルコ11章1-11節までを読んでいただきたい。
イエスはふたりの弟子を使いにだして、言われる。「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まただれも乗ったことのない、そばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。もし、なぜそんなことをするのか。と言う人があったら、主がお入り用なのです。そぐに、またここに送り返されます。と言いなさい。」と(2,3)。「そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。すると、そこに立っていた何人かが言った。ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。」(4-6)と生き生きと目撃したような証言が続いている。皆さん、初めに気付いてほしい。イエスは、主がお入り用なのですと語っておられることを。隣町にも、「主がお入り用なのです」との言葉がに応答する、イエスを支持する方、また、弟子たちがおられたということを。このようにしてイエスのエルサレム入場が準備され、なされていく。
 
それでは、イエスのエルサレム入場の様子を見てみよう。何人かの者たちが、自分たちの上着をろばの子の背に掛けて、イエスはそれに乗られる。くらの変わりに上着を掛ける者が表れる。多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、ともある。これは尊敬の念を表す行為であり、王を迎える行為を多くの者たちが自発的になして行く。イエスこそ私たちの王、メシアであるとの人々の意思表示である。彼らは、叫んで言う。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」ホサナとは、ヘブライ語で「救い給え」の意味であり、神を称賛する時に用いられるようになった言葉である。「祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。」われらの父ダビデの国にとは、メシアこそ、われらの父ダビデの国を再建させてくださるとの願いが示されている。ダビデの栄光をもう一度、もたらしてください。実に熱狂的な歓迎ぶりではあるが、同時に実に人間的な願いではないかと私は思う。このような人間的な願いが、これからの数日間で、失望に変わり、イエスを十字架につけろと叫ぶようになることは、実に残念なことであると私は思う。

続いていちじくの木が枯れてしまう出来事が記録されている。マルコ11章12-14、20-25節を読んでいただきたい。とても興味深い記事で、どうしてイエスはこんなことをなさったのかと驚かされる。空腹を覚えられてイエスが、いちじくの木のところに来られて、何かありはしないかと見られたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである(13)。イエスは、その木に向かって言われる。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた(14)、とある。翌日、朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた様子をペテロは目撃し、「先生。ご覧ください。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」とイエスに語りかける。イエスの答えは実に興味深い。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、動いて、海に入れと言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」とイエスは答えられている(22-24)。

すべての出来事には、神の時があり、神の意思が隠されていると私は信じている。イエスは、まず、人類の罪を赦すために、十字架で贖いの業をなすためにこの地上に来られた。それは、キリストの初臨のことで、キリストに出会った弟子たちによって、いくつかの福音書が書かれ、この地上に多くのクリスチャンが生まれることとなる。キリストの再臨とは、全ての人に正しい裁きをもたらすために、また、クリスチャンを天国に引き上げるために来られる。それは神のご計画であると私は信じている。キリストを十字架につけたユダヤ人たちは、紀元70年にエルサレムがローマ帝国によって滅ぼされ、世界に離散することとなる。救い主が来られたのに、信じることのできない多くのユダヤ人たちもこのいちじくの木のように神の裁きを経験することとなる。しかし、聖霊によって教会が生まれ、多くのクリスチャンは、困難な中でも神を信じ、祈りによって、神の助けを体験していく。困難や迫害を通して、新約聖書が書かれ、残され、聖書が聖霊の導きで完成していく。クリスチャンの人生こそ、この山(多くの困難や試練)に向かって、動いて、海に入れと言うことのできる人生ではと私は思う。今、新型コロナウィルスの影響で多くの方が困難や試練の中にいる。この山よ、動いて海に入れ、と宣言する人生を送っていこうではないか。そして、「主がお入り用なのです」との言葉に応答する者、イエスの働きに協力するものであり続けたいと願っている。